御人形様の行方 (3)
おじいさんに近づくにつれ断崖がさらに間近に迫り、わけもなく鼓動が速まった。内臓がむず痒くなるような感覚を覚えながら崖下を眺めていると、おじいさんが言葉を継いだ。
「お嬢さん、あの向こうに洞窟が見えるかい?」
「えっ? 洞窟ですか? どこに?」
「あそこだよ、あっち側だ」
おじいさんが手を上げ、絶壁の一箇所を指さした。対岸の崖との距離自体は、助走をつけてジャンプすれば届きそうなほど近かったが、川霧がひどく濃くてよく見えなかった。目を細めて集中すると、その向こうに人が一人入れるほどの穴が開いているのが見えた。
「わあ……あんなところに洞窟があるんですね。なんだか不思議」
位置からすれば自然にできた洞窟なのだろうが、形や場所のせいか、どこか人為的な感じもするのが奇妙だった。ただ、洞窟が珍しいとはいえ、おじいさんが私にそれを紹介する理由は全くなかった。そう思い、おじいさんを見つめて問いかけようとした、その瞬間だった。
「ところで、おじいさん。洞窟はどうして……えっ?!」
おじいさんを振り返ると同時に、鋭い何かが私に迫ってきた。反射的に腕を上げてそれを弾き飛ばすと、痺れるような痛みと共に体が後ろへ押しやられた。厚手の上着越しに、赤い色が広がっていくのが見えた。痛みよりも驚きで言葉が出ない。一体、何が……。
驚いた私が慌てて重心を立て直し、一歩身を引くと、傍らに立っていたおじいさんは、惜しむように指をパキパキと鳴らした。異様なほど大きな手には、掌ほどもある長い爪が生えていた。おじいさんの穏やかな声が、雪に覆われた森の中に響いた。
「お嬢さん。そんなに動いたら傷つくじゃないか。血が抜けすぎると、肉がまずくなってしまうんだよ」
限りなく慈愛に満ちた声とは対照的な、おぞましい言葉。一体どういうことなの? おじいさんが狂ってしまったの? 飲んではいけない薬でも飲んだの? それとも、飲むべき薬を飲んでいないの?
何が何だかわからないが、おじいさんが正気でないことだけは確かだ。私は血の流れる腕を止血しながら、おじいさんを睨みつけた。
「何をしてるんですか、おじいさん!」
「何って、見ればわかるだろう? 食事だよ。実に久しぶりの食事だというのに、不味い年寄りの肉ばかり食べさせられていてね」
「……」
春吉さんは、私が子供の頃からこの村に住んでいるお年寄りだ。当然、祖父母とも親交がある。ここに移住してからも何度か助けてもらった。おじいさんはどこからどう見ても、平凡な方だったはずなのに。
おじいさんとは思えない奇怪な言動と腕。目の前にいるのは、本当に春吉さんなのだろうか?
目を細め、おじいさんの行動を注視しようとしたその時。おじいさんが再び私に襲いかかってきた。患っていた体のせいか、速度はそれほど速くない。しかし、長い爪と骨を砕く覚悟で突っ込んでくるような死角からの攻撃は、非常に厄介だった。なんとかおじいさんを避け、距離を取る。
(サイコパスの殺人鬼の次は、食人じじいかよ! ここ、本当に日本なの? 私の知らない異世界に迷い込んだんじゃないでしょうね!)
あまりにもあり得ないことばかり起きるので、想像もくだらないものばかり続く。けれど現実に、こんな馬鹿げたことが起きているのだ。
(どうしよう。山を下りるべき?)
まくのは難しくなかったが、この狂った老人を連れて村へ下りたら、どんな騒ぎになるかわからない。最悪の場合、誰か他の人が食べられてしまうかもしれない。そう思うと、うかつに下山することもできなかった。くそっ、急に何なんだよ。
(田舎暮らし、本当にハードすぎでしょ)
こみ上げる溜息を押し殺していたその時。私の目に、ある違和感が飛び込んできた。それは白い……いや、銀に近い毛だった。白い雪原の上にあっても色褪せないその毛は、細長く伸びておじいさんにまで繋がっていた。あれは……何?
呆然とした顔で、長い毛を辿っていく。広い広場を越え、太い木に絡みつくように続いている。そして、その白い毛の先。そこには。
「……?!」
思わず息を呑んだ。薄暗い木の幹の間に、何かが座っていた。細長い首と手足にはびっしりと毛が生えており、鮮やかな黄色の目と真っ赤な口が妙なコントラストを成していた。
胴体よりも長い腕は、一見すると猿のようにも見えた。
江戸時代に描かれた獣の絵のように、顔が妙に歪んだその獣は、何がそんなに楽しいのか、終始にたにたと笑っており、不味い気極まりなかった。一体何なの? 何が起きているっていうの?
猫なのか野犬なのかもわからない怪物を呆然と眺めていたのも束の間、こんな時ではないと気づいた私は、ハッとして怪物から距離を取った。私が離れた分だけ、おじいさんも私に近づいてきた。
怪物に操られているのだろうか。それとも、すでに怪物に食われ、皮だけが残って動いているのか。判別がつかない。もちろん、どちらの状況であれ、私の行動が変わることはない。
(毛で動かしているから? 動き自体は速くないわ)
どうすれば、この状況をうまく切り抜けられるだろうか。




