御人形様と規則、そして対価 (5)
人形がタオルで慎重に私の足を拭いてくれるという非現実的な行為に呆然としていたのも束の間、礼を尽くして奉らなければならないのは彼ではなく、私の方ではないのか。
ジンが私を世話し、主客転倒しているこの状況に気づいた私は、タオルを持ったジン……いえ、御人形様の手をがしっと掴んで言った。
「わ、私がやります。怪我をしたわけじゃないので、一人でできます。ありがとうございます」
「……」
半ば強引に彼からタオルを奪い取った私は、濡れたタオルで足を適当に拭いた後、洗面所へ向かって手足をきちんと洗った。そして、御人形様がしてくれたように洗面器を持って戻ってきた。
御人形様も私と同じく裸足だったし、雪を踏んだのだから拭いてあげようと思って持ってきたのだが……。
(えっ。あの……何でああなってるの?)
御人形様は、私の足を拭いてくれていた時の姿勢のまま座り、私をじっと見つめていた。瞬き一つしないその姿に、不意に背筋が凍るような心地がした。
「あの。御人形様。ソファに……こちらに座っていただけますか?」
私が手を上げてソファを指し示すと、一拍遅れて私の手に合わせて彼の黒い瞳が動いた。先ほどまでは意識していなかったが、一つ一つの動作がおぼつかないのが、いっそう人間離れしていて恐ろしい。
本当に、一体全体どうなっているの……。
短い沈黙が家の中に降り積もり、御人形様がゆっくりと私が指したソファに腰を下ろした。彼の機嫌を伺いながら慎重に手を伸ばし、足を拭いてあげる。
私の手がひどく冷たいせいか、彼の体が温かく感じられて奇妙だった。降りたての雪を踏んで戻ってきただけだったので、私も彼もそれほど汚れていなかったのが幸いだった。
水分を拭き取り、洗面器を片付けて洗面所に立った私は、途方に暮れた視線で鏡の中の自分を見つめた。
ひょんなことから御人形様が家の中に入ってきてしまったけれど……これからどうすればいいのか分からない。警察にまた連絡すべき? それとも、まず両親に連絡するのが先?
あるいは、御人形様を家から追い出すのが先? 私が追い出したところで、追い出されてくれるの?
というか、今のこの状況。家にいるのがサイコパスの殺人鬼から、人間を食らう人形に変わっただけじゃない?
(攻撃の意志はなさそうだし……サイコパスの殺人鬼がいた時よりはマシ、なのかな?)
御人形様の意思は計り知れないが、食べる前に食材を洗ってから食べるタイプでない限り、大きな危険はないのではないかと思いたい。あれこれ考えていると、頭がひどく痛んできた。
御人形様をこのままにしておくわけにもいかないので、ひとまずリビングに出て優先順位を決めよう。洗面台に寄りかかって溜息をついていた私が、気を引き締めて鏡を見つめた、その瞬間だった。
「……ひゃあっ!?」
洗面所の開いたドアの隙間から、御人形様が立って私をじっと見つめていた。鏡越しに目が合うと、思わず悲鳴が漏れた。もう、びっくりさせないでよ……何でそんな風に見てるの!
「御人形様? 何かありましたか……?」
本当に心臓が止まるかと思った。激しく脈打つ心臓を押さえ、強張った首を無理やり回して御人形様を注視すると、彼が私に手を差し出した。
これは一体、何をしようとしているの?
表情や視線から考えを推測できる人間とは違い、人形は顔だけでは何の意図も読み取れず、不気味だった。
(手を伸ばしたということは、何かを求めている意味で、洗面所で差し出せるものといえば私の手くらいよね?)
必死に推論を重ねた私は、恐る恐る彼に近づき手を伸ばした。すると御人形様が私の手を、正確には私の腕をがしっと掴んで引き寄せた。そして瞬く間に、私を抱き上げたのだ。
(ちょっと、また!?)
一体何なの? 私は米袋か何かなの? そんなに軽いはずがないのに。当惑した表情で彼を見つめても、御人形様は答えてくれない。対話が通じないので、もどかしくてたまらなく恐ろしい。かといって、あの殺人犯にしたように抵抗することもできない。
(……抵抗、してみる?)
殺人犯が彼の体を金槌で殴りつけていた光景を思い出し、私は小さく首を横に振った。抵抗というのも感情がある存在にこそ通用するものであって、苦痛も怒りも感じない存在に試みたところで何の意味があるだろうか。
このまま彼が危害を加えないことだけを願いながら、私は彼がどこへ向かっているのかを確認した。
リビングを通り過ぎた彼が向かった先は、またしても私の部屋。私の部屋に何か隠してあるのでもいうの? なぜしきりにここへ来るのか。推測しようにも手がかりが少なすぎる。
理解できないという表情で御人形様の行動を見守った。
部屋に入った彼は、さっきと同じように私をベッドに横たえ、布団をかけてくれた。そして、自分まで隣に横たわるではないか。




