御人形様と規則、そして対価 (3)
ふふん、ふふん……と、何がそんなに嬉しいのか、浮かれた鼻歌が聞こえてくる。
最初は、別棟の中から聞こえてくるのだと思った。
それほどまでにその声は、すぐ耳元で歌っているかのように近く、鮮明に響いたからだ。
実際のところ、それはあながち間違いではなかった。鼻歌は確かに別棟の方から聞こえてきている。しかし、別棟から「だけ」聞こえてくるわけではなかった。
遠くない位置。古ぼけた黄色い街灯の下で、丸っこい、どこか非現実的な「何か」が長い影を落としながらハミングを続けていた。
ザクッ、ザクッ。雪を踏みしめる音に合わせて、その不揃いな音色は、幼い子供が歌っているかのように軽やかでありながら、老人の声のように枯れ、ひどく掠れていた。
厚く積もった雪を蹂躙しながら近づいてくるその影は、垣根を越えて庭へと侵入してきた。
それは遊園地でよく見かけるような、滑稽な着ぐるみだった。遊園地のものと違う点があるとすれば、その着ぐるみが端正な制服を着ており、口角が気味が悪いほど歪んで吊り上がっていることだろうか。
着ぐるみは、二足歩行が初めてであるかのように、よたよたと千鳥足で別棟へと近づいてくる。
それが近づくたびにハミングは大きくなり、耳を塞がずにはいられないほどおぞましく響き渡った。
「……クソ野郎、ぶち殺してやる!!!」
着ぐるみの存在に気づいていないのか、それとも気づいていて気に留めていないのか。床に転がっていた殺人犯が荒々しく立ち上がると、私とジンを憎しみのこもった目で見つめた。
いや、常識的に考えて、今私たちを睨みつけている場合なのだろうか? よくよく考えれば、背後に立つ着ぐるみよりも、いつ攻撃してくるか分からない人間を警戒するのは筋が通っている。
けれど、今のこのすべてが非現実的な状況において……彼の選択が正しいとは到底言えないだろう。
あまりにもあり得ないことばかりが起きるので、かえって私の理性は冷徹になってしまったようだ。
冷静に状況を分析していると、立ち上がった殺人犯が私とジンの側へ歩み寄ろうとした。しかし、彼は二歩以上踏み出すことができなかった。その間に庭を横切った着ぐるみが、彼の腕を掴んだからだ。
「ちっ、お前はまた何なんだよ!」
『見ーつけた。見つけた、見つけた、見つけたぁぁぁぁぁ!!!!!』
耳を塞いでいて正解だった。そうでなければ、引き裂くように響く着ぐるみの絶叫で、鼓膜が破れていたかもしれない。
殺人犯は手に金槌を握っていたため耳を塞ぐことができず、悲鳴を聞いた途端に顔を歪ませ、着ぐるみに向かって金槌を振り回した。
――カーンッ!
「クソが、どいつもこいつも邪魔しやがって。お前は何だ? 中に入ってるのは、この村のくたばり損ないのジジイか!?」
ジンに金槌が通用しなかったので、着ぐるみにも効かないだろうと思っていたが、予想に反して金槌を食らった着ぐるみは無様にひしゃげ、地面を転がった。
憤怒に駆られた殺人犯は何度も金槌で着ぐるみを叩きのめすと、神経質な笑いを浮かべて再び私たちの方へ視線を向けた。
「次はテメェらの番だ。首を洗って待ってたか? すぐに楽しませてやるから……え?」
狂気にぎらつく瞳でこちらに迫ろうとしていた殺人犯は、今回も二歩以上近づくことはできなかった。そして……。
「うあ、うああああああっ!!!」
大きく見開かれた二つの瞳に、数多くの光景が映し出されていた。しかし私は、字幕のない外国映画を観ているかのように、どの場面もまともに理解することができなかった。それも当然だろう。
ここは二十一世紀なのだ。フィクションや作り話ではなく、現実世界なのだ。
ひしゃげた着ぐるみがガバッと起き上がったかと思うと、潰れた部分が裂けるように開き、そこから無数の牙とぬらぬらした触手が飛び出して人間の体を絡め取るなんてことが、あってたまるか。
触手から滴り落ちる体液が床に触れるたび、黒く濁った軌跡を残した。化け物に変貌した着ぐるみの姿に、つい先ほどまで卑劣な笑みを浮かべていた殺人犯は、恐怖に染まった顔で悲鳴を上げた。
「た、たす……助けてくれ。助けてくれ!!!」
目の前にいるのが決して侮ってはならない怪物であることを悟った殺人犯は、自分のしたことを棚に上げて私に手を伸ばした。助けてくれという悲痛な叫びを聞いても、何の感情も湧いてこなかった。
いいえ、感情は湧いていた。ただ、それが彼を救おうとするものではなかっただけだ。真っ青な顔で必死に私の方へ這い寄ろうとする殺人犯を見つめながら、私はふらふらと立ち上がり、彼を見下ろした。
彼の目に希望が宿った。笑わせないで。
「あんたが殺した哀れな犠牲者たちが、あの世で待ってるわ。地獄で懺悔しなさい、このクズ」
私の答えに彼の顔が絶望に歪んだ。彼は何かを言おうと口を開いたが、漏れ出たのは凄惨な悲鳴だけだった。
まるで着ぐるみが彼を飲み込んでしまうかのように、彼の体は着ぐるみの中へと吸い込まれていった。彼は爪を立てて強く抵抗したが、着ぐるみの吸引力の方が勝っていた。
瞬く間に彼の体は着ぐるみの中へと消え、残ったのは降りしきる雪と、そこに佇む着ぐるみだけ。
そこでようやく、私の意識が現実へと引き戻された。その場にへたり込んだ私は、私をじっと見つめる着ぐるみと目が合った。
大きく丸い人形の瞳を見ていると、まともに息をすることさえ苦しかった。
次の標的は私だろうか? 殺人犯のように大人しく死んでやるつもりは毛頭ないので、何か行動しなければならない。着ぐるみの弱点は何だろう? 火でも放てば死んでくれるだろうか?
ああ、もう。タバコでも吸っていればライターくらい持っていただろうに。武器になりそうなものがないか周囲を見渡していた、その時だった。
それまで一言も発さず私の傍にいたジンが立ち上がり、私の前に立ちはだかった。そしてゆっくりと手を上げ、殺人犯がいた地面を指差した。
「……?」
ジンの姿に、私を注視していた着ぐるみの顔が下を向いた。着ぐるみが地面を見つめると、ジンは再び指を動かし、壊れたドアを指した。これは一体何?
指を追って視線を動かした着ぐるみは、やがて私を……いや、ジンを見つめた。二体の人形が、無言の対話を交わしていた。互いを見つめ合うことしばし、着ぐるみはやがてこちらへ近づいてくると、ドアノブに手を添えた。
その瞬間、壊れていたドアノブが元通りになった。
「えっ?」




