御人形様と規則、そして対価 (2)
(しっかりして……。声を震わせちゃダメ。落ち着くのよ。まだ対話の余地はある。時間を稼いで)
必死に理性を繋ぎ止める。言葉をゆっくりと継ぎながらも、少しずつソファの方へ移動することを忘れなかった。
「……誰も気づかないなんて、手際が鮮やかすぎますね。こんな所にくすぶっているような方には見えませんが。なぜこの村に来たんですか?」
「遊ぶのにも飽きましてね。私もそれなりの年ですから、そろそろ落ち着かなければ。過去を清算して定住するには、物静かな田舎に勝る場所はありませんから」
(定住するために人を殺して、その座を奪う? まともな人間の思考回路じゃないわ)
「他にも候補地はありましたが、この村の人間は皆、人形に執着するあまり、生きている人間同士の絆は希薄だ。これほど好都合な田舎は滅多にありません。法の目が届かない場所でありながら支援金は十分で、余所者への排斥もない。住まない理由がないでしょう?」
「私と似たような考えだったんですね。確かに、こんな村、他にはありませんもの」
「ふふ、気が合いますね。やはり、初めて会った時から雪奈さんのことは気に入っていたんですよ」
(「気に入った」なんて言葉が、これほど吐き気がして鳥肌の立つものだったなんて)
全身の血が凍りつくのを感じながら、私はソファの背もたれに寄りかかって立った。そして自然な動作で手を後ろへ回し、立てかけてあった杖を掴んだ。
「それは光栄ですね。でも、私にも基準というものがありまして。会話も数回しかしていないような方は、ちょっと……」
「あはは! この状況で拒絶を口にするのですか? 大したものだ。ますます気に入りましたよ」
「気に入ったのなら、もうお引き取りいただけますか? 食事のお誘いなら、改めて応じますから」
「それは残念ですが、お断りしましょう。目の前に並んだご馳走を拒む趣味はないのでね。雪奈さんが大人しくしていれば、手荒な真似はしませ……」
彼の言葉が終わる前に、私は杖を振り上げ、そのまま殺人犯めがけて振り下ろした。彼は反射的に腕を上げたが、不意の攻撃を完全にかわすことはできなかった。大きくよろめく彼に、私はもう一度杖を叩きつける。
そして止まることなく、渾身の力で彼の体を蹴り飛ばした。ガタンという大きな音と共に、殺人犯の体が床を転がる。その隙に彼を避け、玄関へと走り、ドアを蹴り開けて外に飛び出した。
降り積もった雪は足首まで届くほどだった。どこへ逃げればいい?
近所の家? 隣の家までは歩いて五分はかかる。この雪道で、成人男性を振り切って走りきれるだろうか? 行ったところで、その人がドアを開けてくれる確率は? 幾多の仮定が頭に浮かんでは消える。
どこへ行っても彼に捕まり、殺される未来しか見えない。私は半ば無意識に駆け出し、別棟へと向かってドアを閉め、鍵をかけた。
「はぁ、はぁ……警察、連絡……」
ポケットを弄ってスマホを探した。けれど、いくら探しても見当たらない。
えっ、嘘でしょ? 確かにポケットに入れたはずなのに!
理解不能な状況に呆然としていたのも束の間。雪の積もった窓の向こうに、私のスマホが落ちているのが見えた。なんてこと! 走ってきた時に落としたんだわ!
どうしよう? 拾いに行くべき? 距離は遠くない。外に出て十秒あれば拾ってこれる。スマホがなければ通報もできない。
家に押し入ってきたのがサイコパスの殺人鬼である以上、両親を頼ることもできない。かといって、朝まで待つこともできない。スマホは絶対に必要よ。考える時間なんてない。
決心した私はドアを蹴り開けて飛び出し、素早くスマホを拾い上げた。それと同時に、母屋のドアが開き、殺人犯がこちらへ駆けてくるのが見えた。
「……!」
即座に身を翻し、別棟へ逃げ込む。手を伸ばせば届く距離まで迫った彼の姿に、私は荒々しく別棟のドアを閉め、かんぬきまでかけた。一秒遅ければ捕まっていたかもしれない。心臓が狂ったように鼓動し、体が震えた。靴も履かず薄着のままで全身が痛んだが、痛がっている余裕はなかった。
「警察に、通報……」
スマホを掲げ、まさに「110」を押そうとした瞬間だった。
――ドガンッ!
「……ひっ!」
「この、アマが……っ!」
重く鈍い何かが別棟のドアを叩きつける音が響き、ギィィと嫌な音を立ててドアがこじ開けられた。壊れたドアノブの向こうから、金槌を手にした殺人犯が近づいてきた。
ああ。終わった。
「死にたいならそう言えばよかったのに。こんな真似をして挑発しなくても、たっぷり遊んでから殺してやったものを」
「……」
「安心しろ、いつかは必ず殺してやる。だが、すぐには死なせない。腹が立った分、八つ当たりしてスッキリしないとな」
にんまりと笑う彼の姿が、街灯の光に照らされておぞましい色を帯びていた。いっそこのまま気絶でもできればいいのに、私の意識はこの狂気じみた光景を前にしても、手放すことを許してくれなかった。
思わず後ずさりをする。何かに躓いて無様に転んだが、構っている暇はなかった。どうすればいい? どうすれば……。
「逃げられると困るから、まずは足を潰してやるよ。まずは足の指からだ。飛び出した肉片を肴に君を愛でるのも、楽しそうじゃないか。君の望む場所から壊してやる。どこがいい? 小指か? 親指か?」
「……」
逃げなきゃ。逃げなきゃダメ。
でも、どこへ?
「言えよ。言わないなら俺の好きにするぞ。三つ数えるまでに言え。一つ、二つ……」
恐怖に染まった私の表情を見て、彼は歪んだ笑みを浮かべながら私の顔を掴んで言った。いや、言いかけていた時だった。
ボゴォッ!
つい先ほどまで視界を埋め尽くしていた殺人犯の吐き気のする顔が、部屋の隅へと吹き飛んだ。息をすることさえ忘れ、目を見開いて硬直していた私は、視界の端から伸びてきた「手」を見て唇を戦慄かせた。
な、何……?
状況を理解する間もなく、視界に影が差したかと思うと、ジンが……あの人形が、座っていた場所から立ち上がり、殺人犯の首根っこを掴んでズルズルと引きずった。殺人犯は抵抗し、彼を金槌で何度も殴りつけたが、傷一つ付かなかった。すべてが非現実的だった。
これは何? 一体、何が起きているの?
ジンが、今開いたばかりのドアの向こうへ殺人犯を投げ捨てた。その瞬間だった。
『見ーつけたっ!』
聞くだけで鼓膜が削れるような、おぞましい声が、静寂の降りた部屋の中に響き渡った。




