8:羊肉はタンパク質と鉄分が豊富だよ
ベアトリスがエドワードのパンイチM豚スタイルをぼんやり思い出しながら、物思いにふけっていると。
不意に、客室の粗末なドアがノックされた。キーツが帰って来たようだ。
ベアトリスは二秒ほど遅れて返事をする。
「どうぞ、お入りになって」
「お嬢ちゃん、食材買ってきたけど夕飯の時間――何してんだ?」
キーツは気だるげな目をぱちくりさせ、部屋の真ん中で直立不動のベアトリスを見る。より正確には、直立の体勢で踵だけをゆっくり上下させる挙動に戸惑っていた。
踵を木床に着地させたベアトリスが、むふんと胸を張る。
「こちらはカーフレイズという、足やお尻の筋肉を鍛える運動方法ですわ! 今日は座りっぱなしでしたので、下半身を重点的に鍛えるべく励んでおりましたの」
「ああ、そう……それで飯、何時に食う?」
「お食事でしたら、いつでも準備万端の大歓迎でしてよ!」
「うん、だろうね」
キーツは終始半笑いで、額に汗をにじませているベアトリスを見ていた。
自分が出かけてからずっと、筋トレを続けていたのか――と訊きたいところだが。
彼はその前に、ベアトリスが着ている華麗なドレスを指さす。
「あのさ。運動するのにその、可愛いドレスのままでいいのか? 汚れない?」
ベアトリスはドレスを両手で摘まみ上げ、いたずらっぽく首を傾けた。
「こちらは長旅用の着古したものですので、お気遣いなく。それにドレスは重いですから、負荷もかかって好都合ですのよ」
「そうか。そりゃ何より――」
呆れ顔で廊下へ引っ込みかけたキーツが、祭服のポケットに手を突っ込んでから再びドアを全開にした。
「ああ、あとそうだ。これ、お嬢ちゃんのじゃねぇか? 修道院の前の道に転がってたけど」
彼がポケットから引っ張り出したのは、数十分前にベアトリスが遠投した指輪だった。彼女は思わず、渋い表情を浮かべる。断固拒絶と言わんばかりに、キーツの手元に身を乗り出していた体も後ずさる。
「……確かに、元はわたくしのものですが。もう捨てましたの」
つんと顎も突き出しての言葉に、キーツは眉をひそめる。
「あ? 捨てた? なんで?」
「わたくしには不要ですので。換金すればそれなりのお値段になるかとは思いますので、よろしければどうぞ。キーツ様がお持ちになって」
あまりポーカーフェイスが得意でない彼女のしかめっ面から、思うところがあったらしい。キーツは手の中で指輪を転がしながら、ベアトリスに尋ねた。
「ひょっとしてこれ、王太子様からのプレゼントだった?」
存外優しい声音だ。ベアトリスは一度肩を強張らせてから、腕を組んで視線を落とした。
「……ええ、そうですわね。はめている時間が長かったもので、外すことも忘れておりましたの」
「まだ未練も、あったり?」
「皆無、と言い切れば――嘘になりますわね。ただ殿下というよりも、わたくしの時間への未練ですが」
ベアトリスは組んだ腕を少しだけ緩め、キーツに苦い笑いを向ける。
「だってわたくしの多感な少女時代の大半を、王太子妃教育に奪われたんですもの。他にもっとやりたいことだってありましたし、もっと遊びたかったもの。未練ぐらいありますわ」
「そりゃそうだよな」
キーツもつられるように笑った。次いで彼はベアトリスへ歩み寄ると、彼女の右手を取った。家族ならびに、元婚約者以外の異性と接触した経験がほぼ皆無なベアトリスは、反射的に身をすくめる。
「な、なんですの――」
「あんたの気持ちは分かるが、これはあんたのものだ。王子様じゃなく」
キーツは露骨に挙動不審なベアトリスに軽く笑いながら、彼女の華奢な手に指輪を載せた。そして彼女よりも大きく、皮膚の硬い自分の手で一度包み込む。
異性に手を握られたことなど、あるわけがないベアトリスの息が止まる。キーツは背中を丸めて、彼女の見開かれた瞳と目線を合わせる。
「もう要らねぇよって言うなら、あんたが売って王都までの旅費にしちまえばいい。馬車の調達ぐらいは俺も手伝うしさ。その方が捨てちまうより、よっぽど有意義だろ?」
「……有意義……」
ベアトリスはオウム返しで呟いてから、有無を言わさず握らされた指輪とにらめっこをしていた。キーツもしばらく、うつむいた彼女の頭頂部を見守る。
ややあって、ベアトリスは顔を持ち上げてキーツを見つめ返した。先程の緊張が尾を引き、まだ少し頬が赤い。
「……そうですわね。ついでにドレスも、新調しようかしら」
彼女から出て来た前向きな言葉に、キーツも大きく頷く。
「そりゃいい。途中でここの領都に寄り道して、散財してやれよ」
別に散財するのは、キーツじゃないのに。楽しそうな彼につられて、ベアトリスも艶やかに笑った。
***
口も態度も不良司祭なキーツは、料理もそれなりにこなせるらしい。
彼は買って来た塊肉から、古ぼけたナイフでするすると二人前を切り分けた。その前に芋とニンジンの皮むきもしていたが、こちらも手慣れたものだった。
「聖職者様なのに、肉食に慣れていらっしゃるのね……さすがにどうなのかしら?」
と一瞬首を捻ったベアトリスだったが、フライパンに載せられた赤身肉からいい匂いが漂って来ると、そんな疑問もたちまち吹き飛んだ。
薄暗い離れの食堂で、二人向かい合ってささやかな晩餐を楽しむ。
ベアトリスは丁寧な所作で、ほどよく焼き目がついた赤身肉の塊を切り、小さな口に放り込んだ。そして金色の目を丸くする。
「まあっ。柔らかくて美味しいお肉ですわね。こちらは羊さんかしら?」
塩とハーブで下味をつけて焼いただけなのに、ずいぶんと旨みが強い。なのに臭みは全くない。
キーツも大きく切った一欠片をパクリと食べ、しみじみ頷く。
「ああ、ラム肉だな。この辺は畜産も盛んだって言ってたから、こんだけ旨いんだろうな」
「あらあら、まあまあ――たしかこちらの村は、ゲイツ伯爵領の一部でしたわね。伯爵はそういえば……一昨年、奥様に先立たれていましたわね」
脳内で国内地図と貴族名鑑を広げるベアトリスに、キーツは目を細めた。
「じじい伯爵の後妻を狙うな。肉目当てで」
「まあっ。どうしてお分かりになったのですか?」
「この流れで肉以外に目当てがあったら、逆に怖いだろ」
キーツは渋い表情で返すと、ナイフとフォークを皿の縁に置いた。ちなみにこの白い皿も、細かなひびが走っている。
「ところでお嬢ちゃん。悪魔を見学する前に、一つ確認したいんだが」
「なんでしょうか。得意な斬り方は一刀両断でしてよ」
「斬るのは諦めろっつってんだろ。そうじゃなくてあんた、神聖力はどれぐらい使えるんだ? 護身ぐらいは出来るのか?」
よくぞ訊いてくれました、と言わんばかりにベアトリスは胸を反らした。
「ふふん。手の平を覆う結界が関の山でしてよ!」
そう言いながら両手に、ごくごく薄い結界も作る。カナブンにも負けそうな強度だ。
大きくため息を吐いたキーツが、側頭部に右手を添える。
「その辺のガキ以下かよ……あんた、帰ったらもうちょっと真面目に、礼拝行っとけよ?」
「うぬぬ……っ」
出来の悪い子供を諭すような、呆れまみれの口調に腹は立ったが、彼が言っていることはその通りなので。ベアトリスも歯噛みするしかなかった。
その時。テーブルに置いた皿やグラスが、小刻みに揺れるような感覚があった。
なんだろうと彼女が首を傾げかけると同時に、地下から猛獣の唸り声のような騒音がした。ベアトリスはうっかり可愛らしい悲鳴を上げる。キーツは忌々しげに、床を睨んでいた。
「何が起こっておりますのっ? 地下にクマさんの一家でもいらっしゃるのかしら?」
「これがあんたが一刀両断にしようとしてた、悪魔の威嚇だな――あっ」
空気も震わせる咆哮で、皿に置いたままだったキーツのナイフが転げ落ちた。そのままテーブルの外まで弾き飛ばされたが、向かいに座るベアトリスの動きは早かった。
彼のナイフがバランスを崩すと同時に椅子から腰を浮かせ、落下と同時に手も伸ばした。ナイフは小汚い床に叩きつけられる前に、鮮やかに救出される。
「キーツ様、お手元不如意でしてよ。お気を付けくださいまし」
「あんた、本当に運動神経はいいんだな。ありがとう」
恭しく差し出されたナイフを、キーツが笑って受け取った。そして彼は、緑の瞳をまたたいた。
「――ん?」
「どうかされました?」
ベアトリスは顔を強張らせてナイフを凝視するキーツに、こてりと首を傾げる。皿から落ちた時に刃こぼれでもしたのだろうか。
しかしキーツは不思議そうな彼女の視線に気付くと、ごまかすように首を振った。
「ああ、いや、うん。なんでもねぇ。たぶん……気のせいだな」
「まあ、思わせぶりですのね。ナイフに一瞬、血まみれの女性の顔でも映りましたの?」
「見てねぇよ。怖いこと言うなよ」
「そして恨みがましい目で、キーツ様を睨んで来られたのでしょう?」
「だから見てねぇって。ここじゃ洒落になんねぇから、やめろ」
悪魔より怪談の類が苦手なキーツは、薄っすら青ざめてうめいた。




