5:原始の躍動
キーツはひびだらけのティーカップを、木のテーブルにそっと置いた。次いでがらんどうの食堂を、ぐるりと見渡してから窓を見る。
薄っすら曇ったガラスの向こう側には、牧歌的な風景と日の傾きつつある空が見えた。
「さて、と。とりあえず飯の準備でもするか。お嬢ちゃん、苦手な食いもんとかある?」
この質問にベアトリスの勝気そうな顔が、ほんの少しだけしかめられた。怒っているのではなく困っているらしく、同時に首も傾いている。
「あら。これから悪魔の観察には行きませんの?」
「連中は夜の方が元気になるからな。見に行くなら朝の方がいい」
たしかに爽やかな日差しが降り注ぐ早朝から、悪魔が暴れているイメージは思い浮かばない。なるほど、とベアトリスも呟いた。
「明日の朝に持ち越しとなることは、承知いたしました。ですがお食事までお世話になるのは忍びないですので、どこかのお宿のご厄介になれればと思うのですが」
キーツが腕を組み、ヘッと笑う。
「こんなド田舎の農村に、宿もレストランもあるわけないだろ。村民御用達の、小汚ぇ酒場ぐらいが関の山だろうけど、どうする? 連れて行こうか?」
「……失言でしたので、お忘れくださいませ」
なんとも癪に障る笑顔だが、言っていることはその通りだ。ベアトリスもムッスリ訂正する。
彼女のふてくされ顔に、キーツの悪い顔がほんの少し緩んだ。
「心配しなくても俺は修道院で寝るし、あんたは修道司祭用の離れを使えばいい。そうすりゃお嬢ちゃんも安心出来るだろ?」
「ですがそちらの離れは、キーツ様のお部屋なのでは?」
ベアトリスも声のトゲを抜いて尋ねると、思ったより深刻な声が返された。
「いや。修道院にあんたが泊まって、万が一悪魔に目を付けられちゃ俺の仕事が増えて困る。むしろ向こうに泊まっててくれ」
仕事が増えて困るとは、随分な言い草である。少なくとも社交界では、公爵令嬢相手に絶対言うセリフではない。
ただキーツ本人は真剣そのものかつ、なんとも切実な口調で言い切っている。ベアトリスも不快より先に、面白さが追いかけて来てつい小さく笑った。
「それではお言葉に甘えて、一晩お世話になりますわ。わたくしに好き嫌いはございませんが、こちらに食材はございますの?」
「酒は売れるほどあるけど、他はなんにもなさそう」
物悲しいキーツの声と目に、ベアトリスも口元に手を添えて「まあ」と小さく呟く。
前任者の修道司祭は、だいぶ荒れた生活をしていたようだ。悪魔と同居しているのだから、酒に逃げたくなる気持ちも――若干分からなくもない。
ともあれ、食材の調達が必要なようなので。ベアトリスが右手を挙手した。
「ではわたくしが、何かかって参りましょうか?」
この申し出にキーツが目を瞬き、苦笑しながら首を振る。
「いやいや、お嬢様にんなことさせられねぇだろ。ってかあんたも、自分でしたことないんじゃ? その辺はだいたい、侍女頼みだろ?」
「あら失礼ね。公爵家の者として、幼少の頃より一通り嗜んでおりましてよ」
ベアトリスのツンとした笑みに、キーツは素直に感嘆した。
「へえ。ラバチェット公爵は、地に足ついたお考えをお持ちなんだな」
「お褒めいただき光栄ですわ。父からは、原始の時代と変わらぬ自給自足の精神こそが、己を強くするのだと教えられましたから」
「ん? 自給自足?」
急に話が見えなくなった。キーツは眉間にしわを作って、こめかみを指で押す。
「お嬢ちゃん……まさか、物々交換でもするつもり?」
今度はベアトリスがきょとん、と金色の目をまたたく。
「そう、ですね……お互いの命のやり取りという意味では、たしかに等価交換ではあるのかもしれませんが?」
急転直下の物騒発言だ。キーツが目を剥いた。
「はっ? 何するつもり!? 強盗!?」
「んまあ! そんなわけないでしょう! 狩猟に決まっておりますわ! 『狩って参ります』と申したでしょう!」
なるほど。「買って」と「狩って」の、同音異義語によるすれ違いだったというわけか。
なるほど――とキーツは一瞬納得しかけ、ますます顔をしかめた。
「いや……この流れで買い物の手前に、狩りなんてえげつない選択肢があると思わねえから。蛮族かよ、あんた」
「いいえ。わたくし、正真正銘の公爵令嬢ですわ」
「偉そうに言うなよ。あとそれ、しまって。怖いから、ほんと」
得意満面のベアトリスが取り出した短剣を、トランクに戻すよう身振りでも指示する。どうして修道院入りするのに、武器を二つも携行しているのか。こいつは討ち入りする気だったのか。
キーツが一つ息を吐き、背中を丸めた。
「あのね、この辺は平和で長閑な農村だし。森で狩猟するにも、領主から許可貰わねぇと駄目だからね」
「そう言えばそうでしたね。では、こちらの領主に話を――」
立ち上がりかけた彼女を、両手を突き出して制す。
「するな、絶対に。俺が買い物してくるから、ここで待ってなさい」
ベアトリスはしばらくの間、ふてくされた顔だった。しかしキーツとにらみ合った末、小さくだが頷く。
「かしこまりましたわ……でも、せっかく弓矢も持って参りましたのに」
「重装備過ぎるだろ。あんた、敬虔な修道院で何するつもりだったんだよ」
これはむしろ、アンテノーラ修道院行きを画策したアホ殿下に先見の明ありかもしれない。
***
ベアトリスは村までのお買い物にはついて行かず、修道院の離れで留守番をすることになった。
「そんな煌びやかな格好でウロつかれたら、目立って仕方ねぇだろ。村民に珍獣扱いされたくなかったら、ここでじっとしてろ」
渋い顔のキーツにこう言われたら、うんと言わざるを得なかった。ただでさえ公爵家は、社交界でもちょっと浮いているのだ。珍獣扱いは間に合っている。
ベアトリスは小ぢんまりとした玄関で彼を見送った後、客室として案内された二階の一室に向かう。なお前任の修道司祭の私室だったという角の部屋は、酒蔵のような有様だった。軽く狂気の沙汰であろう。
離れにはあまり掃除夫も来ていなかったのか、廊下の隅にはうっすらと埃が積もっている。客室は簡素なベッドと棚しかない殺風景な代物だったが、代わりに比較的清潔だった。
ベアトリスは改めて今日の寝床を見渡し、軽く肩をすくめる。
「……まあ、悪魔の巣窟よりはマシですわね」
キーツから悪魔がいると聞かされる前から、修道院にいる時はずっと嫌な空気を感じていた。まるで森で、オオカミの群れに囲まれた時のようなプレッシャーだった。
オオカミ程度であればどうとでも出来るが、正体不明の悪魔が相手では迂闊な真似も出来ない。
そもそも専門家によれば、悪魔は殴っても刺しても焼いても絞めても効果がないらしいし。もちろん三枚におろすのも不可能だろう。
「どうせなら、腸詰めにも挑戦したかったのに。残念ですわ」
なにせ悪魔は、ヤギに似た見た目だという。だとすれば、食べると美味しいかもしれない。
頬に手を添えて憂い顔になったベアトリスだったが、途中でむ、と唇を尖らせた。次いで頬に当てていた右手を見る。
彼女の華奢な指には、指輪がはめられていた。彼女の髪によく似た、鮮やかなルビーが中央で輝く指輪だ。
ベアトリスは目を細め、しばらく指輪をにらむ。だが口も引き結ぶと同時に、薬指から指輪を外した。そのまま窓へと向かう。
両開きの窓は、ぎいぎいと金具をきしませながらもどうにか開いた。くもった窓ガラスを取っ払うと、忌まわしい坂道が見える。自分が馬車に逃げられた、あの道だ。キーツが回収を手伝ってくれたおかげで、放り投げられた荷物はもうない。
「……あの方はおバカな割に、嘘だけはお上手でしたわね」
ベアトリスは握りしめた指輪を一瞥してからそう呟き、振りかぶった。前庭めがけて、見るからに高そうな指輪を躊躇なくぶん投げる。強肩過ぎて、修道院の敷地の外まで飛んで行った気もするが――まあ、その方がせいせいするというものだ。
ベアトリスは指輪が吸い込まれた夕闇をぼんやりを眺め、細い吐息をこぼした。




