10:悪魔のたくらみ
悪魔は、アンテノーラ修道院の地下倉庫だった場所に封印されているという。数百年前、聖女の称号すら与えられた才能あふれる女性司教が、自身の命を代償に封じたらしい。
それ以来教会は、彼女の施した結界が綻びないよう修繕を行いながら、悪魔の寿命が尽きるのを待つ持久戦を続けている、という触れこみなのだが――
「アル中の前任どころか、その前からずっと放置してやがるだろ、これ」
そう呟いたキーツは、地下へ続く階段に足を踏み入れた途端、遠い目になっていた。
階段の踏板はぶ厚い埃に覆われ、足跡なんて一つも見当たらない。
そして天井からはクモの巣が無数に垂れ下がっている。まるでカーテンのようだ。
きっと修道女たちの怪死が相次いだのも、修道司祭たちの手抜き管理によって封印がどんどん綻んでいった結果なのだろう。ベアトリスも彼に続いて階段を下りながら、なんとも杜撰な管理体制に呆れていた。
「このような有様でしたら、さっさと廃院にして全てを白日の下にさらされた方がよかったのでは?」
「うん、俺も同感」
二人は足を動かすたびに舞い上がる埃を吸わないよう、服の袖で顔の下半分を覆いながらさほど長くもない階段を下りた。ちなみに垂れさがるクモの巣は、ベアトリスが愛用する手斧をぶん回してこまめに払っている。
なお彼女が手斧を持ち出した時にキーツは目を剥いたものの、特に異議申し立てはなかった。納得または、諦めてくれたようで何よりだ。
「キーツ様は不良司祭でいらっしゃるだけあって、ご理解が早くて助かりますわ」
「なんだよ急に……脈絡も意図も分かんねぇし、しかも一言多いよな、ほんと」
突然の持ち上げているのか叩きつけているのか分からない評論に、ちらりと振り返ったキーツはげんなり顔だった。
生産性のない会話を終えると同時に、階段も下り終えた。続く短い廊下の奥に、ぶ厚い金属製のドアが見える。あれが元倉庫・現悪魔の封印場所のドアなのだろう。
カンテラを掲げて先導するキーツが、改めてベアトリスを見る。
「それじゃあお嬢ちゃん、覚悟は――いや、愚問だったな。うん、ごめん。忘れて」
彼は右手で握った手斧の柄を、リズミカルに左手に打ち付けるウキウキなベアトリスの姿を見て、心配など無意味と悟ったようだ。すぐに前へ向き直った。
そしてキーツはドアを開けた。金属製の錆びだらけのドアは鍵がかかっておらず、また不快な軋みを響かせながらも案外すんなり開く。
まるで悪魔に手招きされているようで、不気味だ。キーツは小さく唾を飲み、背後のベアトリスは舌なめずりをした。
だが二人とも中へ足を踏み入れた途端、呆気に取られた。
階段や廊下と同じく真っ暗でカビ臭くて、クモの巣と虫の残骸に彩られた、見栄え最悪の汚空間が広がっているかと思いきや、中は明るかったのだ。
大きな窓からは柔らかな午後の陽ざしが差し込み、白と水色を基調にした爽やかな室内を優しく照らしている。レースのカーテンも、薄く開いた窓からの風でふわりとたなびく。
悪魔どころか、どこかのご令嬢の部屋のような内装だ。
「え……なにこのキャワワな空間。悪魔の趣味?」
「まあ、キャワワだなんて。恐縮ですわ」
呆然とするキーツの言葉に、頬に手を添えたベアトリスがぽつりと返す。
「ん? 恐縮ってなんで?」
「こちらは、わたくしの自室ですもの」
「は? あんたの……王都にある実家の?」
「ええ。だって、ほら」
ベアトリスはそう言いながら、慣れた様子で窓際の白い机へ歩み寄る。そして左側の引き出しを開けた。
中からゴトリ、と見覚えのあるメリケンサックから現れる。うわぁ、とキーツは無意識にうめいた。
「ほんとだ……細かい傷、割と多いね」
「ええ。使い込んでおりますので」
「ああ、だろうね……」
彼女は昨日キーツに殴りかかって来た時も、なんの躊躇もないフォームだった。使い込んでいるなら納得である。
その瞬間、部屋全体を揺るがすような哄笑が響いた。地上で聞くよりもずっとうるさく、そして不気味である。ベアトリスも思わず耳に手を当てた。
「失礼、お嬢さん。久しぶりのお客だから、ついはしゃいでしまってね」
笑い声が止むと同時に、どこからか慇懃無礼な低い声がする。ベアトリスは自分の部屋(と思しき空間)をぐるりと見渡した。
「お姿は見えませんが、あなたが悪魔でいらっしゃいますわね?」
「ええ、いかにも」
「どうしてわたくしのお部屋をご存知なのですか? 王太子殿下も門前払いにしておりましたのに」
「え、かわいそう……」
キーツと悪魔の声が被った。しかし悪魔はすぐに、咳ばらいをしてごまかした。地獄の住人にも「気まずい」という概念があるらしい。
「あ、いや、それはともかくだね――折角歴代の修道司祭様方の怠惰おかげで、封印が緩んだのだ。少しばかり力を使い、君の記憶を読ませてもらったんだよ。どうだい、懐かしいだろう?」
「そうはおっしゃられましても。つい一昨日も見た部屋ですので……懐かしさはギリギリございませんわね」
悪魔に話しかけられても、ベアトリスはマイペースだった。
しかし、だからこそ落とし甲斐がある――悪魔は姿を見せないまま、静かに笑っていた。悪魔が読み取ったのは、ベアトリスの自室の記憶だけではない。
婚約者の浮気現場を目撃した、あの日の記憶を丸ごと読み取っていたのだ。
人の魂を食らう悪魔は、怒りや恐れといった粘ついた感情を好み、そして嗅ぎ分ける。この記憶にも、強い怒りが焦げ付いていたのだ。
それを本人の目の前で再演すれば、さぞかしいい出し物になるだろう――そして彼女が動揺したところで食らえば、空腹も手伝って極上の味になるに違いない。
口の中によだれを溜めてウキウキワクワクする悪魔も鑑賞する中、幻の部屋に変化があった。侍女を連れたあの日のベアトリスが、冷めた表情で部屋に入って来たのだ。
なお今のベアトリスは「あらわたくしだわ。我ながら美人ね」と相変わらず呑気である。
ドアを閉めた侍女が、涙目でがなった。
「お嬢様のような素晴らしい婚約者がいらっしゃるのに……殿下のあの裏切りは、酷いです! あんまりでございます!」
「そうよね。酷いわよね」
幻のベアトリスは苦笑しながら、体を震わせる侍女の背中を優しく撫でていた。
「ねえアーシャ。わたくし、少し気分転換をしたいのだけれど。お庭に準備、してもらえるかしら?」
「ええ、ええ、もちろんですとも!」
アーシャと呼ばれた侍女はハンカチで涙を拭うと、キリリとベアトリスへ頷いて部屋を出て行った。そしてベアトリスも、壁にかけられていた手斧をむんずと掴んだ。リースに混ざってさり気なく飾られていたため、こんな武器もあるなんて全然気づかなかった。
「あ、あの斧って」
異常事態に呆然としていたキーツが、はたと気付く。ベアトリスはにこり、と蜂蜜色の目を細めた。
「ええ。こちらの手斧でございますわ。わたくしの、一番のお気に入りですの」
「ああ、そう……」
キーツ(とそして悪魔)が引いていると、場面が花の咲き誇る見事な庭園に変わった。おそらく、公爵家内の敷地なのだろう。
庭園には樹齢百年を超えていそうな、見事な大木があった。そしてその木の前に、何故かエドワード王太子の絵姿が置かれている。わざわざイーゼルに載せられて。
幻のベアトリスは、その絵の前に立った。次いで右手に持った手斧を構え、大きく振りかぶって素振りをする。ぶうん、と低い音と一緒に疾風が起きる。
ベアトリスはそのまま、怒涛の速さで手斧をぶん回した。空気を斬る音の合間に、ぶつぶつと呟く声も聞こえる。
「許せません、許せません、許せません、許せませんわ。絶対に許せませんわ。何なのですの、あの意味不明なプレイは。あんな奇天烈行為をわたくしにも強いるおつもりですの? わたくしはむしろ、がっしりムチこいた旦那様にオラオラと攻めていただきたいのに。貧弱ガリクソン体型な旦那様を踏むだなんてあり得ませんわ、趣味ではありませんわ。最悪ですわ」
抑揚のない恨み言と、性癖開示のコンボ――怖い。キーツと、姿を見せないままの悪魔は震えあがった。ベアトリスだけは頬を赤らめ、ちょっと照れている。
幻のベアトリスはその後も「許さん」「ガリクソン」「最悪」を連呼しながら、最後に
「地獄に落ちて下さいませ!」
そう声高に叫ぶと同時に、両手で構えなおした手斧を振り下ろした。今までの比でない疾風――いや、風刃が発生し、エドワードの麗しい絵姿がイーゼルごと真っ二つになった。
後ろで見守っていたアーシャが、可愛らしく歓声を上げて拍手した。
「お嬢様、さすがでございます! 見事な一刀両断でございます!」
「ありがとう。いつの日か殿下ご本人も、こうしてやりたいものですわね」
「ええ、ええ! その際はぜひ、私も特等席で拝見いたします!」
王太子惨殺宣言に感極まるアーシャの言葉を最後に、幻はふつりと消えた。周囲はいつの間にか、カビ臭くてとにかく汚い地下室に変わっている。
暗くて汚い空間に、嫌な沈黙が流れた。
だってキーツと悪魔は今、令嬢の皮を被った恐ろしいモンスターと一緒にいるんだもの。
逃げろ、キーツ!悪魔!




