第九十六話 商人の矜持
江戸。
米の流れを巡る争いは、静かな戦いになっていた。
刀は抜かれない。
怒号もない。
しかし。
町の命を握る戦いが、見えない場所で続いている。
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弥助は、源兵衛と並んで帳面を見ていた。
以前なら考えられない光景だった。
互いに競い合ってきた二人。
信用。
市場。
物流。
何度も正面からぶつかった。
しかし今は。
同じ相手を見ている。
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「大倉屋は。」
源兵衛が言う。
「米を商品としてではなく。」
「力として扱っている。」
弥助は頷く。
「だから危険なんです。」
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庄吉が尋ねる。
「でも。」
「米を買い集めること自体は、商売ではありませんか?」
弥助は答える。
「そうだ。」
「商人が利益を求めることは悪くない。」
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「問題は。」
「町が困る状況を作り。」
「その不安から利益を得ようとしていることだ。」
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源兵衛は静かに頷く。
「商人には。」
「守るべき一線がある。」
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その言葉に。
庄吉は少し驚いた。
源兵衛がそんなことを言うとは思わなかった。
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源兵衛は続ける。
「商売とは。」
「相手がいて初めて成り立つ。」
「客が倒れれば。」
「最後には商人も倒れる。」
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「大倉屋は。」
「そこを理解していない。」
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二人はまず。
米の流れを取り戻すために動いた。
最初の手は。
情報公開だった。
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「江戸米帳」
弥助が発表する。
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現在どれだけ米があるのか。
どこに保管されているのか。
どれだけ市場へ出ているのか。
それを商人組合と米問屋で共有する。
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「しかし。」
一人の米問屋が不安そうに言う。
「公開すれば。」
「買い占めている者にも情報が渡ります。」
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弥助は頷いた。
「その通りです。」
皆が驚く。
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「ですが。」
「隠しているからこそ。」
「不安が広がる。」
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「米が本当に足りないのか。」
「誰かが止めているだけなのか。」
それが分からないから。
人々は恐れる。
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「恐れは。」
「市場を乱します。」
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江戸米帳は。
米を管理するためではなく。
人々の不安を減らすための仕組みだった。
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数日後。
効果は少しずつ出始める。
「米は存在する。」
「ただ流れが滞っているだけだ。」
そう分かるようになった。
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町人たちの買い占めも減る。
必要な分だけ買う者が増える。
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しかし。
大倉屋は動きを変えた。
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「江戸米帳ですか。」
屋敷で報告を聞いた庄三郎は笑う。
「面白い。」
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「情報を公開することで。」
「人を安心させる。」
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「だが。」
「安心した人間は。」
「また普通に米を買う。」
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側近が尋ねる。
「では。」
「まだ勝てると?」
庄三郎は頷く。
「もちろんだ。」
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「問題は。」
「米ではない。」
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「次は。」
「運ぶ道を止める。」
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その頃。
弥助は港の様子を確認していた。
すると。
異変に気づく。
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「船が少ない。」
庄吉が言う。
「確かに。」
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通常なら。
各地から米を積んだ船が来る。
しかし。
到着する船の数が減っていた。
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「調べろ。」
弥助が言う。
「どこで止まっている。」
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調査の結果。
新たな問題が判明する。
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米を積んだ船が。
途中の港で足止めされている。
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「海まで。」
庄吉が息を呑む。
「手を回しているんですか。」
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弥助は黙る。
大倉屋の狙いが分かってきた。
米を隠すだけではない。
流通そのものを握るつもりだ。
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その夜。
源兵衛は地図を見ていた。
「陸も。」
「海も。」
「押さえようとしている。」
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玄蔵が言う。
「もはや一商人の範囲を超えています。」
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源兵衛は答える。
「だからこそ。」
「我々が止める。」
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弥助が尋ねる。
「源兵衛さん。」
「あなたはなぜ。」
「そこまで大倉屋を止めたいのですか。」
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源兵衛はしばらく黙った。
そして。
静かに答える。
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「私は。」
「商売で勝ちたい。」
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「相手より良い商品を作る。」
「相手より良い仕組みを作る。」
「その勝負なら。」
「負けても悔いはない。」
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「だが。」
「相手の力で。」
「商売する場所そのものを壊されたら。」
「それは商人の戦いではない。」
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弥助は頷いた。
初めて。
源兵衛の商人としての信念を理解した。
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しかし。
二人が話している間にも。
大倉屋は次の手を進めていた。
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江戸へ向かう大きな米船。
その船団の前に。
一隻の船が現れる。
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「通行を許可できません。」
船頭が驚く。
「なぜだ。」
男は答える。
「新しい契約です。」
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「これから江戸へ入る米は。」
「大倉屋を通してください。」
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海の流れまで。
変えようとしていた。




