第九十四話 米蔵の影
江戸。
朝になっても、米屋の前には人の列ができていた。
昨日より長い。
一昨日より、不安そうな顔が増えている。
「少しでも安いうちに買っておかないと……」
「冬になったら、もっと上がるんじゃないか。」
町人たちの声が飛び交う。
弥助はその様子を遠くから見ていた。
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「若旦那。」
庄吉が小声で言う。
「やはり、ただの値上がりではありませんね。」
弥助は頷く。
「人が不安になると。」
「市場はさらに乱れる。」
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米が不足している。
そう思えば、人は買い急ぐ。
買い急げば、さらに値段が上がる。
実際の量以上に、不安が市場を動かしていた。
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「まずいな。」
弥助は呟く。
「米は食べ物だ。」
「商人同士の勝負で終わらせてはいけない。」
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弥助は米問屋、農村、港。
それぞれを調べ始めた。
すると。
一つの共通点が見えてきた。
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「若旦那。」
庄吉が帳面を並べる。
「米の産地は違います。」
「ですが。」
「江戸へ向かう途中で止まっています。」
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「どこで?」
弥助が聞く。
庄吉は地図を指した。
「川沿いの蔵です。」
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江戸へ入る前。
大量の米を一時保管できる場所。
そこに不自然なほど多くの米が集まっていた。
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弥助たちは、その蔵を訪ねた。
しかし。
「立入禁止です。」
門番が立ちはだかる。
「ここは誰の蔵ですか?」
庄吉が尋ねる。
門番は答えない。
「許可のない者は入れません。」
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弥助は周囲を見る。
新しい縄。
大量の荷車の跡。
そして。
蔵へ運び込まれた米俵。
間違いない。
ここに何かがある。
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その夜。
弥助は家康へ報告した。
「米を隠している者がいます。」
家康の表情が険しくなる。
「江戸の民が困っている中でか。」
「はい。」
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正信が尋ねる。
「黒潮屋ではないのですか。」
弥助は首を振る。
「違います。」
「源兵衛なら。」
「もっと大きく、堂々と仕掛けます。」
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家康は少し笑った。
「よく分かっているな。」
弥助も苦笑する。
「長く商売で競っていますから。」
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しかし。
問題は黒幕だった。
「では。」
正信が言う。
「誰が米を集めているのか。」
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弥助は答えなかった。
まだ証拠がない。
ただ。
一つ気になることがあった。
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米を買い集めている商人たち。
その名前。
その資金。
その動き。
全てが、ある一人の男へ繋がりそうだった。
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その男の名は。
**大倉屋庄三郎**
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江戸でも古くから続く米問屋。
表向きは、堅実な商人。
しかし。
最近、急激に力を伸ばしている。
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「大倉屋……。」
庄吉が呟く。
「聞いたことがあります。」
「数年前までは小さな米屋だったはずです。」
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弥助は頷く。
「急に大きくなった商人には。」
「必ず理由がある。」
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その頃。
大倉屋の屋敷。
広い座敷に、男が座っていた。
「予定通りだな。」
部下が頭を下げる。
「はい。」
「江戸の米は、ほぼ押さえました。」
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男は満足そうに笑う。
「商売とは。」
「物を持つことではない。」
「必要としている時に。」
「持っていることだ。」
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「人は米が欲しい。」
「だから。」
「米を持つ者が力を持つ。」
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そこへ。
一人の客が訪れる。
「お待ちしておりました。」
男は頭を下げる。
「源兵衛様。」
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黒潮屋の源兵衛だった。
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弥助は知らなかった。
源兵衛がこの事件に関わっていることを。
しかし。
源兵衛の表情は、いつもの余裕とは違っていた。
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「大倉屋。」
源兵衛は静かに言う。
「あなたは危険な橋を渡っている。」
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大倉屋庄三郎は笑う。
「黒潮屋様も。」
「商売人なら分かるでしょう。」
「価値とは。」
「必要とされる時に決まる。」
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源兵衛は黙る。
確かに。
商人としての理屈は間違っていない。
しかし。
これは市場操作だ。
江戸の民を巻き込んでいる。
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「あなたは。」
源兵衛が言う。
「商売と支配を混同している。」
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大倉屋は笑った。
「違います。」
「私はただ。」
「時代の流れを読んでいるだけです。」
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その頃。
弥助は別の場所で帳面を見ていた。
そして。
一つの可能性に気づく。
「まさか……。」
庄吉が尋ねる。
「何ですか?」
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弥助は静かに答える。
「この相手は。」
「米を売って儲けたいんじゃない。」
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「江戸そのものを。」
「自分の市場にしようとしている。」
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米。
人。
町。
全ての命の流れを握ろうとする者。
弥助がこれまで戦ってきた相手とは、少し違う。
源兵衛は商人として未来を作ろうとしていた。
だが。
大倉屋は違う。
力で未来を縛ろうとしている。
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江戸の米を巡る戦い。
それは。
単なる商売の争いではなく。
町の命を誰が守るのかという戦いへ変わろうとしていた。




