第九十三話 町の命
江戸の朝。
港には船が並び。
街道には荷車が行き交う。
職人街では朝早くから槌の音が響いていた。
町は生きていた。
日に日に大きくなり。
日に日に人が増えている。
しかし。
弥助は一つの数字を見て眉をひそめていた。
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「若旦那。」
庄吉が帳面を覗き込む。
「何かありましたか。」
「米だ。」
「米?」
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弥助は帳面を庄吉へ渡す。
そこには最近の米価が記されていた。
一月前。
一俵百二十文。
現在。
一俵百四十五文。
わずか一か月で大きく値上がりしていた。
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庄吉の顔色が変わる。
「かなり上がっていますね。」
「ああ。」
「まだ騒ぐほどではない。」
「だが。」
弥助は窓の外を見る。
「放置すれば問題になる。」
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江戸の人口は増え続けている。
人が増えれば食べる量も増える。
だが。
供給が追いつかなければ。
値段は上がる。
そして。
最も苦しむのは貧しい者たちだった。
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その日の午後。
弥助は米問屋を訪ねた。
店主は困った顔をしていた。
「正直に申し上げます。」
「仕入れが安定しません。」
「なぜです?」
「荷が来ないのです。」
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「不作ですか。」
「いえ。」
店主は首を振る。
「米はあるのです。」
「ですが。」
「途中で買い集められております。」
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弥助は黙った。
庄吉も気づいた。
これは自然な値上がりではない。
誰かが動いている。
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その夜。
弥助は正信へ報告した。
「米の流れがおかしい。」
「私も聞いております。」
正信は深刻な表情を浮かべる。
「江戸近郊だけではありません。」
「東海道全体で起きています。」
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「買い占めか。」
弥助が呟く。
正信は頷いた。
「証拠はありません。」
「しかし。」
「誰かが大量の米を押さえています。」
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一方。
黒潮屋。
玄蔵も同じ報告を読んでいた。
「米価が上がっています。」
「そうか。」
源兵衛は静かだった。
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「何かご存じなのですか。」
玄蔵が尋ねる。
源兵衛は答えない。
代わりに問い返した。
「江戸で一番大切な荷は何だ。」
「米です。」
「なぜだ。」
「人が生きるためです。」
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源兵衛は頷く。
「その通り。」
「だから。」
「最も大きな商機でもある。」
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翌日。
江戸の町では不安が広がり始める。
「また値上がりした。」
「米屋に並ぶ人が増えている。」
「このままでは冬が心配だ。」
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町人たちの声を聞きながら。
弥助は歩いていた。
そして。
ある米屋の前で足を止める。
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店先にいた老婆が言う。
「最近は買う量を減らしてるんだよ。」
「孫がいるからね。」
「全部は買えない。」
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弥助は何も言えなかった。
帳面の数字ではない。
目の前にいる人が困っている。
それが現実だった。
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その夜。
弥助は庄吉と話していた。
「若旦那。」
「どうしますか。」
弥助は少し考える。
そして言った。
「まず。」
「米がどこにあるのか調べる。」
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「買い占めた者を探す?」
「違う。」
弥助は首を振る。
「犯人探しは後だ。」
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「大事なのは。」
「米が足りないのか。」
「足りているのか。」
「そこを確かめることだ。」
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庄吉は頷いた。
それが弥助らしかった。
誰かを疑う前に。
まず流れを見る。
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数日後。
調査の結果が集まり始める。
そして。
弥助は異常に気づいた。
「これは……。」
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江戸へ向かうはずの米。
その一部が途中で止まっている。
しかも。
同じ商人たちが何度も買い付けていた。
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庄吉が息を呑む。
「やはり買い占めですか。」
弥助は帳面を見つめる。
「違う。」
「もっと厄介だ。」
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「何がです?」
弥助は静かに答えた。
「買っている者が見えない。」
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名義は違う。
店も違う。
だが。
資金の流れは繋がっている。
まるで。
誰かが裏で糸を引いているようだった。
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同じ頃。
江戸郊外の蔵。
大量の米俵が積み上げられていた。
薄暗い蔵の中。
男たちが帳面を確認している。
「予定通りです。」
「江戸の相場が上がっています。」
「そうか。」
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その奥に座る人物は顔を見せない。
ただ。
静かに言った。
「まだ売るな。」
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「しかし。」
「利益が出ます。」
男が言う。
すると。
低い声が返ってくる。
「利益の話をしているのではない。」
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「市場を動かすのだ。」
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蔵の中が静まり返る。
男たちは気づいていた。
これは単なる商売ではない。
江戸全体を揺らす勝負なのだと。
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一方。
弥助は夜遅くまで帳面を見続けていた。
流れを追う。
荷を追う。
人を追う。
そして。
ある名前に目が止まる。
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「黒潮屋……?」
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しかし。
次の瞬間。
弥助は首を振った。
「違うな。」
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源兵衛なら。
こんな回りくどいことはしない。
やるなら正面からやる男だ。
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では。
誰なのか。
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江戸の発展を支える食糧。
その流れを操る者が現れた。
そして。
弥助はまだ知らない。
この事件が。
江戸編最大の騒動の始まりになることを。




