第九話 兵糧台帳
「お前が管理しろ」
代官・松田清左衛門の言葉が、広間に重く落ちた。
一瞬、誰も動かなかった。
源兵衛ですら、口を開いたまま固まっている。
「代官様……それは……」
ようやく絞り出した声は、途中で途切れた。
無理もない。
ただの米問屋の倅に、領内の米を任せるなど前代未聞だ。
だが清左衛門は視線を逸らさなかった。
「米の流れを見抜いたのはお前だ」
「……」
「ならば責任も持て」
短い言葉だった。
しかし逃げ道はなかった。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「分かりました」
答えは一つしかない。
ここで断れば、この話は終わる。
そして終われば、この領もいずれ崩れる。
それだけは見えていた。
――――
その日のうちに、山本屋は代官所へ呼び出された。
いや、正確には「移された」と言うべきかもしれない。
広間の一角に机が置かれた。
紙と筆。
墨壺。
そして大量の空白の帳面。
「これが……?」
源兵衛が呟く。
「兵糧台帳だ」
代官が短く言った。
「領内の米を一元管理する」
そんなものは、今まで存在していなかった。
少なくともこの町では。
俺は机に手を置いた。
「まず確認ですが」
「なんだ」
「誰がどこに何石持っているか、把握できていますか」
代官は沈黙した。
その沈黙が答えだった。
「分かっていない、ということですね」
「……そうなる」
想定通りだ。
この時代の管理は「感覚」だ。
帳面はあっても統一されていない。
蔵元ごと。
村ごと。
商人ごと。
全部バラバラだ。
「なら、整理します」
俺は筆を取った。
「全て洗い出します」
源兵衛が慌てて止める。
「お、おい弥助! そんなこと出来るわけ……」
「やるんだよ」
短く言った。
前世で何度もやった作業だ。
倉庫統合。
在庫統一。
データの一本化。
呼び方が違うだけで、やることは同じだ。
「まずは三つに分けます」
俺は紙に書く。
「領主備蓄」
「商人流通」
「民間在庫」
代官が興味深そうに覗き込む。
「それで何が分かる」
「どこに“余り”があるかです」
余り。
この言葉に武士たちが反応する。
「米に余りなどあるのか?」
「あります」
俺は即答した。
「ただし、見えていないだけです」
広間が静かになる。
俺は続けた。
「今の問題は不足ではありません」
「では何だ」
「偏りです」
一部に集中し、一部が枯れる。
それが混乱の正体だ。
「例えば」
俺は指を立てる。
「商人が買い占めれば市場は不足する」
「だが村の蔵には残っている」
「しかし流れない」
「だから足りないように見える」
代官が目を細めた。
「流せばよいのか」
「はい」
俺は頷く。
「ただし“誰が流すか”が重要です」
そこで視線を上げた。
代官を見る。
「それを俺がやります」
一瞬、空気が変わった。
源兵衛が息を呑む。
庄吉は唖然としている。
代官はしばらく沈黙した。
そして。
「やってみろ」
短く言った。
――――
その瞬間から、山本屋は「商人」ではなくなった。
代官所の一角に常駐することになった。
米の出入りを記録する。
在庫を集計する。
流通を調整する。
俺は机に向かいながら、静かに思った。
これはもう商売ではない。
戦だ。
しかも、刀を使わない戦。
「弥助」
背後から声がする。
源兵衛だった。
「お前、本当にやれるのか」
俺は筆を止めないまま答えた。
「やるしかないだろ」
少し間を置いて、続ける。
「もう、始まってる」
窓の外では、風が吹いていた。
その風は、もうただの季節の風ではなかった。
何かが動き始める音がしていた。




