第七十九話 別れの港
東国行きを決めた翌日。
その知らせは博多の町を駆け巡った。
「山本屋の弥助が東へ行くらしい。」
「徳川家から呼ばれたとか。」
「本当か?」
港では人々が驚きながらも、どこか誇らしげだった。
博多の港から育った商人が、日本有数の大名家に請われたのだ。
---
「若旦那、本当に行くんですね。」
庄吉が少し寂しそうに言った。
「そうなるな。」
「私はついて行きます!」
「聞いてないぞ。」
「今決めました!」
弥助は思わず吹き出した。
庄吉らしい。
---
だが、問題もあった。
「学校はどうする。」
「港の寄り合いもあります。」
弥助の言葉に庄吉も真顔になる。
確かに弥助がいなくなれば、せっかく作った仕組みが止まってしまう。
---
その日の午後。
商人の学校に関係者が集められた。
島井宗清。
甚兵衛。
港役人。
人足頭たち。
そして卒業生第一号の吉蔵も、豊前から駆け付けていた。
「皆さんにお願いがあります。」
弥助は深く頭を下げた。
「学校を続けてください。」
部屋が静まり返る。
---
「弥助殿。」
宗清が静かに尋ねる。
「それは、あなたがいなくてもという意味ですか。」
「はい。」
弥助はうなずいた。
「本当に良い仕組みなら。」
「私がいなくても続くはずです。」
---
吉蔵が立ち上がった。
「私も教えます!」
「吉蔵。」
「弥助さんに教わりました。」
「今度は私が教える番です。」
それを聞いて庄吉も立ち上がる。
「じゃあ私も!」
「帳面なら任せてください!」
次々に声が上がる。
「荷印の授業は私がやろう。」
「人足の講習は任せろ。」
「算術なら得意だ。」
気付けば誰も反対していなかった。
---
宗清は大きく笑った。
「見事ですな。」
「何がです?」
「もう弥助殿がいなくても動いている。」
弥助は周囲を見回した。
確かにそうだった。
皆が自分で考え、自分で動いている。
それこそが目指していた姿だった。
---
数日後。
出発の日。
博多港には大勢の人が集まっていた。
人足。
船頭。
商人。
学校の生徒たち。
まるで祭りのようだった。
「若旦那!」
「東国でも頑張ってください!」
「また戻って来てください!」
声が飛び交う。
---
庄吉は荷物を抱えながら涙ぐんでいた。
「泣くな。」
「泣いてません!」
「泣いてるだろ。」
「風です!」
弥助は苦笑した。
港中が笑いに包まれる。
---
その時。
人混みの後ろから、一人の老人が現れた。
源兵衛だった。
もちろん誰も正体を知らない。
老人は静かに近づいてくる。
「旅立ちですかな。」
「ええ。」
弥助も穏やかに答える。
「東国へ。」
「大きくなりましたな。」
「博多の港も。」
「学校も。」
「人も。」
源兵衛は海を見つめる。
「あなたのおかげでしょう。」
「皆のおかげです。」
弥助は即座に答えた。
その返事に、老人は小さく笑った。
---
「弥助殿。」
「何でしょう。」
「東海道は広い。」
「そして。」
「西国よりも厄介な連中が多い。」
「覚悟しています。」
「そうですか。」
源兵衛は満足そうにうなずいた。
---
別れ際。
老人は小さな包みを差し出した。
「餞別です。」
中には古い方位磁石が入っていた。
「これは?」
「昔、私が若い頃に使っていた物です。」
「大切な物では。」
「だから渡すのです。」
弥助はしばらく迷ったが、静かに受け取った。
「ありがとうございます。」
---
船が出港する。
岸壁では大勢の人々が手を振っている。
「若旦那ー!」
「また来てください!」
「先生ー!」
いつの間にか、弥助は先生と呼ばれていた。
庄吉が笑う。
「先生ですって。」
「慣れないな。」
「でも似合っています。」
---
船はゆっくりと港を離れる。
博多の町が少しずつ遠ざかっていく。
弥助は港を見つめながら思った。
この町へ来た時、自分はただの米問屋だった。
だが今は違う。
物流を学び。
人を育て。
多くの仲間を得た。
そして、その輪は西国全体へ広がっている。
---
岸壁に残った源兵衛は、遠ざかる船を見送りながら呟いた。
「さて。」
「次は東国か。」
玄蔵が隣へ立つ。
「追いますか。」
「もちろんだ。」
老人は静かに笑う。
「商人同士の勝負は。」
「まだ終わっておらぬ。」
博多編は幕を閉じる。
しかし弥助と黒潮屋の戦いは、さらに大きな舞台へ続いていくのだった。




