第七十二話 古狐
「私が相手をしよう。」
老人の一言で、座敷は静まり返った。
玄蔵は深く頭を下げたまま動かない。
老人はゆっくりと茶を口へ運ぶ。
「玄蔵。」
「はい。」
「失敗ではない。」
「相手が思った以上だっただけだ。」
「申し訳ございません。」
「謝る暇があるなら学べ。」
老人の声は静かだった。
しかし、その一言には玄蔵でさえ逆らえない重みがあった。
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翌朝。
弥助は島井宗清とともに博多の町を歩いていた。
「最近、町が落ち着きませんな。」
宗清がため息をつく。
「噂。」
「荷の行方。」
「武器の密売。」
「商人たちも不安になっています。」
「だからこそ。」
弥助は町を見渡した。
「物流を止めるわけにはいきません。」
荷が止まれば、町も止まる。
それだけは避けなければならなかった。
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その頃。
港の茶屋では、一人の老人が酒を飲んでいた。
どこにでもいる旅商人のような身なり。
誰も気に留めない。
老人は茶屋の主人へ尋ねる。
「最近、山本屋という商人が来ているそうだな。」
「ええ。」
「評判ですよ。」
「荷が早い。」
「約束を破らない。」
「みんな信用しています。」
老人は小さく笑った。
「なるほど。」
「噂どおりか。」
そのまま勘定を済ませ、静かに店を出ていった。
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昼過ぎ。
山本屋では荷積みが続いていた。
「若旦那。」
庄吉が駆け寄る。
「旅の商人が会いたいそうです。」
「通してください。」
やって来たのは、白髪の老人だった。
背は低い。
着物も質素。
どこにでもいる年寄りにしか見えない。
「初めまして。」
「旅をしております。」
「源兵衛と申します。」
弥助は丁寧に頭を下げた。
「山本屋の弥助です。」
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「一つ。」
老人が尋ねる。
「商人に一番必要なものは何ですかな。」
弥助は少し考える。
「信用です。」
老人は笑う。
「金ではなく?」
「金は信用があれば後から付いてきます。」
「ほう。」
「では。」
「信用と利益。」
「どちらかしか選べぬなら?」
庄吉が固唾を飲む。
難しい問いだった。
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弥助は迷わなかった。
「信用です。」
「理由は。」
「利益は一度失っても取り戻せます。」
「ですが。」
「信用は、一度失えば何十年かけても戻らないことがあります。」
老人は何も言わず、静かにうなずいた。
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さらに老人は質問を続ける。
「商売敵が困っていたら?」
「助けます。」
「敵ですよ?」
「はい。」
「商人が一人潰れれば。」
「町全体の物流が弱くなります。」
「競争は必要です。」
「でも。」
「壊し合っても誰も得をしません。」
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老人は目を細めた。
「面白い。」
「今の若い商人には珍しい。」
「ありがとうございました。」
そう言って立ち上がる。
弥助も見送ろうとした。
その時。
老人の袖から、一枚の木札がわずかにのぞいた。
黒い木札。
波の印。
黒潮屋。
弥助の目が鋭くなる。
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「お待ちください。」
老人が振り返る。
「その木札。」
「どこで?」
老人は袖へしまい、穏やかに笑った。
「拾いました。」
「嘘ですね。」
「そう思いますか。」
二人の視線がぶつかる。
ほんの数秒。
しかし、その場の空気は張り詰めていた。
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老人は静かに頭を下げた。
「今日は良い話を聞けました。」
「また、いずれ。」
そう言って店を後にする。
庄吉が追いかけようとした。
「待て!」
弥助が止める。
「若旦那?」
「今追っても捕まらない。」
弥助には分かっていた。
あの老人は、わざと姿を見せたのだ。
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夕方。
宗清へ今日の出来事を話すと、宗清は驚きを隠せなかった。
「その老人……。」
「おそらく。」
弥助は静かに答える。
「黒潮屋の本当の頭です。」
「やはり。」
「玄蔵ではありませんでしたか。」
「あの人は。」
「私を見に来たんです。」
敵もまた、こちらの力を見極めようとしている。
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その頃。
町外れの屋敷。
老人は玄蔵へ静かに言った。
「弥助は面白い。」
「利用するには惜しい。」
「では。」
「始めるぞ。」
老人は懐から一枚の古い地図を取り出す。
そこには。
博多。
堺。
安芸。
近江。
京。
そして東国へ続く街道が赤い線で結ばれていた。
「物流を一つ止めれば。」
「天下は揺れる。」
老人は静かに笑う。
「ならば。」
「天下そのものを相手に商売をしよう。」
弥助と黒潮屋。
二人の商人の戦いは、いよいよ天下を巻き込む戦いへと変わり始めていた。




