第七十話 信用を懸けた戦い
翌朝。
博多の港は、いつもと変わらぬ賑わいを見せていた。
魚を運ぶ荷車。
明船から降ろされる絹。
米俵を積んだ商船。
昨日の出来事など、誰も知らないかのようだった。
しかし弥助は違った。
机の上には、黒潮屋が残していった金貨と勝負状。
「信用を懸けた戦い、か……。」
玄蔵は商人として勝負すると言った。
ならば、この先は刀ではなく商売で決着をつけることになる。
---
島井宗清が宿を訪ねてきた。
「弥助殿。」
「少々困ったことが起きましてな。」
「何でしょう。」
宗清は一枚の注文書を差し出した。
「昨夜から、米の買い占めが始まっています。」
「買い占め?」
弥助は注文書を見て眉をひそめた。
同じ筆跡。
同じ金額。
だが、買い手の名前だけが違う。
「偽名ですね。」
「おそらく。」
宗清もうなずく。
「港中の米を集めようとしております。」
---
庄吉が驚いた声を上げる。
「まさか!」
「ああ。」
弥助は静かに答えた。
「値段をつり上げる気だ。」
米が市場から消えれば、人々は高くても買うしかない。
玄蔵が言っていた。
**『困る者が増えるほど儲かる。』**
まさに、そのやり方だった。
---
その日の午後。
博多の米問屋が集まり、緊急の寄り合いが開かれた。
「どうする。」
「全部売れば大儲けだ。」
「いや。」
「町から米がなくなる。」
商人たちの意見は割れていた。
その時、宗清が弥助を見た。
「弥助殿。」
「そなたなら、どうする。」
---
弥助はゆっくり立ち上がる。
「皆さん。」
「一つだけ確認させてください。」
「この町で、一番大切なのは何ですか。」
商人たちは顔を見合わせる。
「金か?」
「利益か?」
弥助は首を横に振る。
「違います。」
「信用です。」
部屋が静まり返る。
---
「今日。」
「高く売れば儲かるでしょう。」
「ですが。」
「明日。」
「博多の商人は、困った時に助けてくれない。」
そう思われたら。
その損失は、一生続く。
「商売は、一日では終わりません。」
「十年。」
「二十年。」
「その先まで続きます。」
---
宗清が静かにうなずいた。
「その通りだ。」
そして周囲を見回す。
「島井家は。」
「米の価格を変えません。」
一人。
また一人。
商人たちが立ち上がる。
「うちも据え置く。」
「便乗はしない。」
「いつもの値段で売る。」
寄り合いは、一つにまとまった。
---
夕方。
その知らせは、黒潮屋にも届いた。
玄蔵は静かに笑う。
「なるほど。」
「そう来たか。」
部下が不思議そうに尋ねる。
「よろしいのですか?」
「予定が狂います。」
「いや。」
玄蔵は首を振る。
「まだ始まったばかりだ。」
「次の手を打つ。」
---
翌朝。
博多中に、とんでもない噂が流れ始めた。
「山本屋の米には砂が混ざっている。」
「毛利家へ粗悪な米を納めた。」
「近江屋とも縁を切られたらしい。」
誰が言い始めたのか分からない。
だが噂は瞬く間に広がっていく。
庄吉が血相を変えて飛び込んできた。
「若旦那!」
「大変です!」
「お客さんが来ません!」
---
山本屋の店先。
いつもなら列を作る客が、今日はまばらだった。
通り過ぎる人々も、どこか不安そうな顔をしている。
庄吉が悔しそうに拳を握る。
「全部、嘘なのに!」
弥助は静かに店先へ立った。
「庄吉。」
「怒るな。」
「え?」
「噂は。」
「怒って否定するほど広がる。」
庄吉は言葉を失う。
確かに前世でもそうだった。
事実より、感情の方が速く広がる。
---
弥助は店の暖簾を見上げた。
「信用は。」
「口で守るものじゃない。」
「行動で守るものだ。」
その時、一人の老人が店へ入ってきた。
「弥助殿。」
島井宗清だった。
「島井家は。」
「これまでどおり山本屋から米を買います。」
続いて。
「近江屋も同じです。」
京から来た使者が書状を差し出す。
さらに。
「毛利家も契約は変えぬ。」
隆景からの書状が届く。
長い時間をかけて築いてきた信用が、一つ、また一つと弥助を支え始める。
店の前でその光景を見ていた人々は、小さくざわめいた。
「本当に悪い商人なら……。」
「こんなに皆が信じるはずがない。」
噂は、少しずつ力を失い始めていた。
---
その頃。
物陰からその様子を見つめていた玄蔵は、小さく笑った。
「面白い。」
「金では買えぬものを、本当に持っているか。」
彼は静かに踵を返す。
「ならば。」
「次は、その信用そのものを試してやろう。」
黒潮屋との戦いは、まだ始まったばかりだった。




