第五十七話 商人の遺志
「近江屋・藤兵衛殿、病に倒れる。」
その一文を読んだ俺は、すぐに京への帰路についた。
荷車は最低限。
人足も必要な人数だけだ。
「若旦那。」
庄吉が馬を走らせながら言う。
「藤兵衛様……大丈夫でしょうか。」
「分からない。」
俺は短く答えた。
「だが、会えるうちに会っておきたい。」
商売を教えてくれた恩人だった。
遅れるわけにはいかない。
---
京へ着くと、近江屋には重苦しい空気が漂っていた。
普段は威勢のいい番頭たちも声を潜め、静かに仕事をしている。
「弥助殿。」
番頭頭が深く頭を下げた。
「お待ちしておりました。」
「藤兵衛殿は?」
「奥で休んでおられます。」
「お会いになりますか。」
俺は黙って頷いた。
---
部屋へ入ると、藤兵衛は布団の上で静かに横になっていた。
以前より痩せていたが、その目にはまだ力が残っている。
「……弥助殿。」
「来てくれたか。」
「はい。」
俺は枕元へ座った。
藤兵衛は小さく笑う。
「そんな顔をするな。」
「まだ死なん。」
思わず笑ってしまう。
この人らしい。
---
「弥助殿。」
藤兵衛はゆっくりと口を開いた。
「商売は順調か。」
「おかげさまで。」
「東国へも荷を運びました。」
「そうか。」
満足そうに目を閉じる。
「聞いたぞ。」
「利益を抑えて売ったそうだな。」
「困っている人から大金は取れません。」
「うむ。」
藤兵衛は静かに頷いた。
「それでよい。」
---
しばらく沈黙が続いた。
やがて藤兵衛は、枕元から一冊の古い帳簿を取り出した。
「これは?」
「近江屋の初代帳簿だ。」
思わず息をのむ。
紙は黄ばみ、表紙も擦り切れている。
何十年、いや百年近く受け継がれてきたものなのだろう。
「弥助殿。」
「帳簿とは。」
「金を書くものではない。」
「……?」
「信用を書くものだ。」
俺は静かにページをめくる。
そこには売上だけではない。
「飢饉の年、無利息で米を貸した。」
「橋の修理へ銀を寄付した。」
「孤児を奉公人として育てた。」
数字より、人とのつながりが記されていた。
---
「商人は。」
藤兵衛は少しかすれた声で続ける。
「世の中が豊かになってこそ栄える。」
「自分だけ儲かっても意味はない。」
「町が滅びれば。」
「商人も滅びる。」
俺は深く頷いた。
その言葉は、前世では学べなかった商売だった。
---
「だから。」
「弥助殿。」
「物流を育てなさい。」
「物流?」
「道を育て。」
「人を育て。」
「商人を育てる。」
「そうすれば。」
「国は豊かになる。」
その一言一言が胸へ染み込んでいく。
---
夕方。
藤兵衛は少し疲れたように目を閉じた。
「今日は休まれた方が。」
俺が立ち上がると、藤兵衛は俺の袖を軽くつかんだ。
「最後に一つ。」
「はい。」
「商人は。」
「戦に勝つことはできぬ。」
「だが。」
「戦を終わらせることはできる。」
俺はその意味をすぐには理解できなかった。
しかし、その言葉だけは心へ深く刻まれた。
---
近江屋を出る頃には、夕焼けが京の町を赤く染めていた。
庄吉が静かに歩いてくる。
「若旦那。」
「藤兵衛様……。」
「ああ。」
「まだ大丈夫だ。」
そう答えながらも、不安は消えない。
---
その夜。
宿へ戻ると、番頭頭が慌てて追いかけてきた。
「弥助殿!」
「どうしました?」
「藤兵衛様から。」
「これを預かっております。」
差し出されたのは、小さな木箱だった。
中には一枚の木札と、一通の手紙。
手紙には、震える筆跡でこう書かれていた。
**『この札を持つ者を、近江屋は生涯の友とする。』**
そして木札には、近江屋の屋号が深く刻まれていた。
それは金銀よりも価値のある、近江屋からの最大の信頼の証だった。




