第五十六話 若き当主との出会い
三河・松平家。
その名を聞いた庄吉は、思わず息をのんだ。
「若旦那……。」
「松平家って、あの三河の……。」
「ああ。」
俺も名前くらいは知っている。
戦国時代に数ある大名家の一つ。
だが、歴史好きではない俺には、それ以上の知識はなかった。
「まずは会ってみよう。」
商人にとって、縁は何よりの財産だ。
断る理由はない。
---
数日後。
俺たちは三河へ向かっていた。
街道は東国ほど荒れてはいない。
だが、各地の検問は以前より厳しくなっている。
「戦が近いんでしょうか。」
庄吉が小声で尋ねる。
「かもしれない。」
荷車を引く人足たちも、どこか緊張した面持ちだった。
戦国の世では、戦の気配そのものが物流に影響を与える。
---
松平家の居城へ到着すると、一人の家臣が出迎えた。
「山本屋の弥助殿。」
「ようこそお越しくださいました。」
応接の間へ通される。
やがて、襖が静かに開いた。
現れたのは、まだ二十歳にも満たない若武者だった。
細身の体。
穏やかな表情。
だが、その瞳には年齢に似合わぬ落ち着きがある。
「遠路、ご苦労であった。」
静かな声だった。
「私は松平元康。」
その名を聞いた瞬間、俺の胸がざわめいた。
(元康……。)
どこかで聞いたことがある。
だが、はっきりとは思い出せない。
前世でも歴史は詳しくなかった。
ただ、この人物が後に大きな存在になるような、そんな漠然とした記憶だけが胸をよぎった。
---
「弥助殿。」
元康は微笑んだ。
「そなたの話は、各地で聞いている。」
「米を運び。」
「町を救い。」
「地震で困った領民まで助けたそうだな。」
「大げさに伝わっております。」
俺が苦笑すると、元康も笑った。
「噂とはそういうものだ。」
場の空気が少し和らぐ。
---
「今日は、一つ相談がある。」
元康は地図を広げた。
三河から駿河へ続く街道。
いくつもの宿場町に印が付いている。
「兵糧の輸送が遅れている。」
「理由は。」
「荷車が足りぬ。」
「人足も不足している。」
俺は地図を見ながら考えた。
「荷車を増やしても解決しません。」
元康が興味深そうに身を乗り出す。
「なぜだ?」
「荷車だけ増やしても、牛や馬が足りなければ動きません。」
「人足だけ増やしても、荷車がなければ運べません。」
「必要なのは、全体の調整です。」
元康は静かに頷いた。
「続けてくれ。」
---
「宿場ごとに荷を積み替えましょう。」
「積み替え?」
「一台の荷車が最後まで運ぶ必要はありません。」
俺は地図へ線を引く。
「第一宿場まで。」
「次は第二宿場。」
「そこで次の荷車へ引き継ぐ。」
「人も馬も、その日のうちに戻れます。」
庄吉が目を丸くした。
「駅伝みたいですね。」
「その通り。」
現代で言えば、中継輸送。
長距離を一台で走るより、短距離を交代した方が効率は高い。
---
元康はしばらく地図を見つめていた。
やがて、小さく笑う。
「面白い。」
「武将は兵の動かし方ばかり考える。」
「だが、そなたは荷の動かし方を考える。」
「荷が動けば、人も動きます。」
俺は答えた。
「兵も、民も、商人も。」
「腹が減れば動けません。」
元康は深く頷いた。
「その通りだ。」
---
話し合いが終わる頃には、日は傾いていた。
帰り際、元康は一枚の木札を差し出した。
「これは?」
「松平家の御用札だ。」
「この札を持つ者は、我が領内で自由に商いをしてよい。」
また一つ、大きな信用を手に入れた。
しかし、それ以上に嬉しかったのは、元康が最後に口にした言葉だった。
「弥助殿。」
「また知恵を貸してほしい。」
「いつでも。」
俺は迷わず答えた。
---
城を出ると、庄吉が興奮気味に言った。
「若旦那!」
「すごい人でしたね!」
「ああ。」
「まだ若いのに、話をちゃんと聞いてくれる。」
それが印象的だった。
頭ごなしに命令するのではない。
分からないことは素直に尋ねる。
そんな器の大きさを感じた。
---
その夜。
宿へ戻ると、伊三郎から新たな飛脚が到着していた。
「弥助様。」
「今度は何だ?」
文を開く。
そこには短く、こう記されていた。
**『近江屋・藤兵衛殿、病に倒れる。至急、京へ戻られたし。』**
俺は文を握り締めた。
商売の師とも言える老人に、何があったのか。
山本屋は再び、京へ向かうことになる。




