第五十五話 商人の矜持
翌朝。
川越の町は、久しぶりに炊き煙が立ち上っていた。
配給された米で粥を炊き、人々が静かに列を作る。
子どもたちの笑い声も少しずつ戻り始めていた。
「若旦那。」
庄吉が帳面を抱えて駆け寄ってくる。
「予定していた米は、すべて配り終えました。」
「味噌も九割。」
「塩は半分ほど残っています。」
俺は帳面に目を通し、小さく頷いた。
「いい。」
「残った塩は町医者へ優先して渡そう。」
「医者ですか?」
「ああ。」
「傷口を洗うにも、食事を作るにも塩は必要だ。」
庄吉は感心したように頷き、すぐに走っていった。
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昼過ぎ。
川越城から迎えが来た。
案内された広間には、城主と数人の家臣が待っている。
城主・上杉憲忠は、五十を過ぎた落ち着いた武将だった。
「そなたが山本屋の弥助か。」
「はい。」
俺は深く頭を下げた。
憲忠はしばらく俺を見つめ、静かに言った。
「礼を言う。」
「領民を救ってくれた。」
「もったいないお言葉です。」
「商人として当然のことをしたまでです。」
その答えに、家臣たちがざわめいた。
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「当然……か。」
憲忠は少し笑った。
「多くの商人なら、この混乱に乗じて値を吊り上げる。」
「だが、そなたは違った。」
俺は城主の目を見て答えた。
「困っている人から大金を取っても、一度きりの儲けです。」
「ですが。」
「信用は、一生の財産になります。」
広間が静まり返る。
城主はゆっくりとうなずいた。
「近江屋の藤兵衛殿と同じことを言う。」
その言葉に、俺は思わず笑みを浮かべた。
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「弥助殿。」
憲忠は立ち上がり、一枚の地図を広げた。
「見てほしい。」
そこには東国一帯の街道が描かれていた。
崩落した橋。
通れなくなった峠。
被害の印が至る所についている。
「復旧には一年以上かかるだろう。」
「それまで物流が止まれば、領民は飢える。」
俺は地図を見つめた。
確かに深刻だ。
しかし。
「止まりません。」
俺は静かに言った。
「……何?」
「道が一本しかないから止まるんです。」
「二本あれば。」
「三本あれば。」
「物流は止まりません。」
家臣の一人が首をかしげる。
「そんな都合よく道など……。」
俺は地図へ指を走らせた。
「この川沿い。」
「この山道。」
「この渡し舟。」
「全部つなげれば、新しい物流網になります。」
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広間にいた者たちは地図へ集まった。
「なるほど……。」
「こんな道があったのか。」
「荷車は無理でも、人なら通れる。」
家臣たちが次々に声を上げる。
憲忠は静かに笑った。
「そなたは道を見る目が違う。」
「私は。」
俺も笑う。
「人を見るより、道を見る方が得意なんです。」
広間に笑いが広がった。
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話し合いは夕方まで続いた。
最後に憲忠が一枚の書状を差し出す。
「これは?」
「通行手形だ。」
「私の領内であれば、山本屋の荷は自由に通してよい。」
俺は驚いた。
通行税。
検問。
待ち時間。
それらが一気に減る。
物流にとって、これ以上ない価値があった。
「ありがとうございます。」
深く頭を下げる。
「ただし。」
憲忠は穏やかに続けた。
「一つだけ頼みがある。」
「何でしょう。」
「この領にも、そなたの物流を教えてほしい。」
俺は迷わず答えた。
「喜んで。」
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城を出ると、夕日が町を赤く染めていた。
庄吉が通行手形を何度も見返している。
「若旦那。」
「これって、すごい物なんですよね?」
「ああ。」
「でも。」
俺は手形を懐へしまった。
「一番うれしいのは紙じゃない。」
「信用だ。」
庄吉は笑った。
「また信用ですね。」
「商売は結局そこへ戻る。」
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その夜。
山本屋の救援隊が宿で休んでいると、一人の若い武士が訪ねてきた。
「山本屋の弥助殿はおられるか。」
「私ですが。」
武士は丁寧に一礼し、一通の文を差し出した。
封には見覚えのある家紋が押されている。
**三つ葉葵。**
「これは……。」
俺が息をのむ。
武士は静かに告げた。
「三河の松平家より、お招きです。」
東国での働きは、さらに新たな戦国大名の耳にも届き始めていた。




