第五十八話 近江屋の頼み
翌朝。
宿へ差し込む朝日で目を覚ますと、昨夜受け取った木札が枕元に置かれていた。
近江屋の屋号が刻まれた、小さな木札。
だが、その重みは金貨何百枚にも勝る。
「若旦那。」
庄吉が障子を開ける。
「近江屋から使いの方がお見えです。」
「もう来たのか。」
俺は身支度を整え、すぐ近江屋へ向かった。
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店へ入ると、番頭頭の善吉が深々と頭を下げた。
「弥助殿。」
「朝早くから申し訳ありません。」
「何かあったんですか。」
善吉は周囲を見回し、小さな声で言った。
「実は……近江屋が困っております。」
「近江屋が?」
京一の豪商ともいわれる店が困るなど、想像もつかなかった。
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応接間へ通される。
善吉は帳面を広げた。
「こちらをご覧ください。」
そこには、各地の支店から届いた報告が並んでいた。
近江。
美濃。
伊勢。
尾張。
堺。
それぞれに荷の到着日が書かれている。
俺はすぐ違和感に気付いた。
「到着日がばらばらですね。」
「はい。」
「荷は届く。」
「ですが、予定通り届きません。」
善吉は深いため息をついた。
「商売が大きくなりすぎたのです。」
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俺は帳面を見続ける。
原因はすぐに分かった。
「荷が集まってから出している。」
「その通りです。」
「だから遅れる。」
例えば美濃から荷が二日遅れる。
すると伊勢の荷も待つ。
尾張の荷も待つ。
結果、全部遅れる。
現代なら誰でも知っている。
ボトルネックだ。
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「善吉さん。」
「はい。」
「全部まとめるのをやめましょう。」
「え?」
「荷は揃うのを待たない。」
「準備できた分から出す。」
善吉は目を丸くする。
「しかし。」
「荷車が無駄になりませんか?」
「なります。」
俺は素直に答えた。
「ですが。」
「荷が止まる方が、もっと損です。」
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善吉は腕を組んで考え込む。
「なるほど……。」
「一台で百運ぶより。」
「五十を二回運ぶ。」
「その方が全体は早く回る。」
俺は頷いた。
「物流は速さだけじゃありません。」
「流れを止めないことです。」
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その日の午後。
近江屋の番頭たちが集められた。
俺は地面に簡単な図を書きながら説明する。
「荷を待たない。」
「積めるだけ積む。」
「戻ってまた積む。」
最初は半信半疑だった番頭たちも、話を聞くうちに表情が変わっていく。
「確かに。」
「待っている時間が長すぎた。」
「だから蔵がいっぱいになっていたのか。」
善吉が深く頭を下げた。
「勉強になります。」
「いえ。」
俺は首を振った。
「前世……。」
危うく口を滑らせそうになり、咳払いをする。
「……以前、似たような失敗を見たことがあるだけです。」
庄吉は苦笑していた。
また変な言葉が出そうになったことに気付いたのだろう。
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夕方。
試しに一つの支店で新しい方法を始めることになった。
結果は、その日のうちに現れた。
「善吉様!」
若い番頭が飛び込んでくる。
「尾張行きの荷が半日早く出ました!」
「伊勢便も蔵が空き始めています!」
善吉は驚いたように俺を見る。
「半日……。」
「たった半日。」
俺は笑った。
「物流では、その半日が大きいんです。」
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その夜。
近江屋の離れで、小さな宴が開かれた。
藤兵衛はまだ床についていたため姿は見せなかったが、善吉が盃を掲げる。
「弥助殿。」
「近江屋を代表して礼を申し上げます。」
「いえ。」
「私は少し考え方を話しただけです。」
善吉は首を横に振る。
「違います。」
「我らは商売のやり方を変えました。」
「その価値は計り知れません。」
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宴も終わり、宿へ戻ろうとした時だった。
伊三郎が血相を変えて駆け込んできた。
「弥助様!」
「どうした?」
「近江屋ではありません!」
「え?」
「堺です!」
息を切らしながら伊三郎は叫んだ。
「堺の商人たちが、山本屋との取引を望んでおります!」
俺は思わず立ち止まった。
堺。
日本最大の商業都市。
ついに山本屋の名は、戦国随一の商人たちが集う町にまで届いたのだった。




