第三十二話 国境の向こう側
「黒川家が条件を受け入れました。」
九兵衛の報告に、広間の空気が少しだけ和らいだ。
「代金は。」
政景が尋ねる。
「約束どおり、半分が届いております。」
重臣たちがざわめく。
「本当に払ったのか。」
「敵とは思えんな。」
俺は首を横に振った。
「敵だからこそです。」
「信用がなければ、この先の取引は続きません。」
商人にとって、一度失った信用は金では買い戻せない。
それは、この時代も同じだった。
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三日後。
山本屋の店先には、兵糧を積んだ荷車が並んでいた。
荷車十五台。
護衛の兵が二十名。
馬借や人足たちも、いつになく緊張した表情を浮かべている。
「若旦那。」
庄吉が小声で話しかけてきた。
「本当に行くんですか。」
「行くよ。」
「向こうは敵ですよ。」
「だからこそ、自分の目で見たい。」
噂だけでは分からない。
現場を見なければ、本当のことは何一つ分からないのだ。
「出発!」
俺の声で荷車がゆっくりと動き出した。
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国境までは半日。
見慣れた街道を進み、橋を渡る。
その先には、黒川領の兵たちが待っていた。
槍を持った兵が道を開ける。
「山本屋殿。」
若い侍が頭を下げた。
以前、引き抜きに来た使者だった。
「護衛いたします。」
「よろしくお願いします。」
こうして兵糧隊は黒川領へ足を踏み入れた。
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しばらく進むと、俺は違和感を覚えた。
「静かだ……。」
村がある。
畑もある。
だが、人影が少ない。
田畑には雑草が目立ち、子どもの笑い声も聞こえない。
庄吉も同じことを感じたらしい。
「なんだか……。」
「元気がありませんね。」
その時だった。
一人の老婆が荷車を見つめて立ち止まった。
視線は米俵から離れない。
その隣には、小さな男の子。
痩せ細った腕で祖母の袖を握っている。
俺は思わず荷車を見た。
兵糧には手を付けられない。
契約の品だからだ。
それでも。
胸の奥が締め付けられた。
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城下町へ着くと、さらに驚かされた。
市場は開いている。
しかし店先に並ぶ品物は少ない。
野菜も干物も、普段の半分ほどしかない。
人々の顔にも笑顔がなかった。
「弥助殿。」
案内役の侍が声を掛ける。
「こちらです。」
案内された蔵では、多くの役人が兵糧の到着を待っていた。
荷車が到着すると、蔵番たちが安堵の表情を浮かべる。
「間に合った……。」
「これで配給が続けられる。」
その言葉を聞き、俺は思わず尋ねた。
「配給?」
蔵番が頷く。
「はい。」
「三日前から、一日一食にしております。」
「それでも米が足りません。」
庄吉が息を呑む。
ここまで深刻だったとは。
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荷下ろしが終わる頃、一人の老人が近づいてきた。
粗末な着物。
日に焼けた顔。
農民だろう。
老人は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「皆、助かります。」
「私は何も。」
「運んだだけです。」
老人は静かに首を振る。
「運ぶ人がおらねば。」
「米は蔵へも。」
「村へも届きません。」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。
前世では、荷物を届けても感謝されることなどほとんどなかった。
だが、この時代では違う。
一俵の米が、人の命をつないでいる。
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帰り支度をしていると、朝の案内役だった侍が近づいてきた。
「弥助殿。」
「はい。」
「我が殿がお会いしたいと申しております。」
「黒川様が?」
「はい。」
「明日の朝、お時間をいただけませんか。」
俺は少しだけ考えた。
敵国の当主と会う。
普通なら断る場面かもしれない。
だが。
「分かりました。」
「お会いします。」
侍は深く一礼した。
「ありがとうございます。」
夕日が城下町を赤く染めていく。
俺は城を見上げながら、小さく息を吐いた。
この出会いが、吉と出るか。
それとも凶と出るか。
まだ、その答えは誰にも分からなかった。




