第二十九話 敵にも民がいる
「黒川家は、民を避難させております。」
九兵衛の報告に、広間は静まり返った。
「戦ではない……。」
家老が低く呟く。
「飢えへの備えか。」
政景は腕を組み、地図を見つめていた。
「弥助。」
「どう見る。」
俺は少し考えてから口を開いた。
「戦になる可能性はあります。」
「ですが。」
「黒川家が本当に欲しいのは、土地ではありません。」
「米です。」
重臣たちが頷く。
今年の凶作は、誰もが知っている。
収穫が足りなければ、人は飢える。
飢えれば村は荒れ、国は乱れる。
「殿。」
俺は地図の国境を指差した。
「国境沿いの村は、どうなっていますか。」
家老が答える。
「こちらも苦しい。」
「昨年の備蓄で何とか凌いでいる状態だ。」
予想どおりだった。
どちらの国も余裕はない。
違いは、まだ表に出ているかどうかだけだ。
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城から戻る途中。
俺は国境へ続く街道を歩いていた。
道端には、やせ細った親子が座り込んでいる。
見慣れない着物。
荷物もほとんど持っていない。
「黒川領の者か。」
声を掛けると、男はゆっくり頷いた。
「村を出ました。」
「食べる物が……。」
その先は言葉にならなかった。
幼い娘は母親の袖を握ったまま、力なく座り込んでいる。
俺は庄吉へ目を向けた。
「握り飯は残ってるか。」
「二つあります。」
「渡そう。」
庄吉は少し驚いた顔をしたが、何も言わず包みを差し出した。
親子は何度も頭を下げる。
「ありがとうございます……。」
「命の恩人です。」
俺は首を振った。
「礼はいりません。」
「子どもを大事にしてください。」
親子は涙を流しながら去っていった。
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山本屋へ戻ると、源兵衛が腕を組んで待っていた。
「弥助。」
「聞いたぞ。」
「避難民へ飯をやったらしいな。」
「うん。」
源兵衛は少し黙っていた。
やがて苦笑する。
「昔のお前なら。」
「絶対そんなことしなかった。」
「そうかな。」
「損得ばかり考えてた。」
俺は思わず笑う。
前世の俺なら、確かにそうだったかもしれない。
物流会社でも、数字ばかり追い掛けていた。
利益。
効率。
納期。
もちろん大切だ。
だが。
米は数字ではない。
人が生きるためのものだ。
そのことを、この時代へ来て初めて実感していた。
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翌朝。
店先へ、一人の老人が現れた。
見覚えがある。
荷車を直してくれた車大工だった。
「若いの。」
「おはようございます。」
老人は一枚の木札を差し出した。
「何ですか。」
「紹介状じゃ。」
「紹介状?」
「古い友がおる。」
「桶を作らせたら天下一。」
「船も造れる。」
俺は思わず顔を上げた。
「船大工ですか。」
老人は頷く。
「荷車だけでは限界がある。」
「これからは船も増やせ。」
「川を制する者は、物流を制する。」
その言葉に、俺の胸が高鳴る。
船を増やせば。
一度に運べる兵糧は何倍にもなる。
街道が塞がれても困らない。
さらに多くの村を救える。
「ありがとうございます。」
俺は深く頭を下げた。
老人は照れくさそうに笑う。
「礼なら、その友に言え。」
「頑固者じゃが、腕は確かじゃ。」
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その日の夕方。
一方、大黒屋。
黒羽織の男は報告を受けていた。
「山本屋ですが。」
「国境の避難民へ食料を配ったそうです。」
男は目を閉じる。
「商売にならんな。」
番頭が笑う。
「慈善事業です。」
「放っておけばよろしいかと。」
だが。
黒羽織の男は首を横に振った。
「違う。」
「人の恩は、金では買えん。」
「敵ながら、厄介な男よ。」
そう呟くと、机の上の地図へ視線を落とした。
そして、ある一点を指でなぞる。
「ならば。」
「川を封じる。」
「次は、人でも橋でもない。」
「川そのものを止める。」
その一言に、番頭は思わず息を呑んだ。
弥助が築き上げた物流網へ。
最大の試練が迫ろうとしていた。




