第十九話 燃えなかった蔵
「山本屋の蔵が!」
庄吉の叫びに、俺は宿を飛び出した。
九兵衛も迷わず後を追う。
夜の城下町を駆け抜けると、遠くに赤い炎が見えた。
「くそっ!」
源兵衛が先に駆け出している。
店の前には、大勢の町人が集まっていた。
「水を運べ!」
「こっちだ!」
怒号が飛び交う。
だが、思っていたより炎は小さい。
俺は違和感を覚えた。
「……庄吉。」
「はい!」
「どの蔵だ。」
「東の蔵です!」
東の蔵。
その言葉を聞いた瞬間、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
「若旦那?」
庄吉が不思議そうな顔をする。
「大丈夫だ。」
「え?」
「一番大事な米は、西の蔵に移してある。」
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数日前。
「親父。」
「何だ。」
「米を分けよう。」
「分ける?」
源兵衛は首を傾げた。
「蔵が二つあるんだから、全部を一つに入れるな。」
「そんな面倒なことを……」
「面倒でもやる。」
俺は譲らなかった。
「全部を一か所に置けば、一度の火事で終わる。」
「半分ずつなら、生き残る。」
源兵衛は渋々頷いた。
「そこまで言うなら……」
その判断が、今生きた。
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「若旦那!」
町人が駆け寄ってくる。
「火は東の蔵だけです!」
「西は無事!」
俺はすぐに指示を飛ばした。
「西の蔵から米を運び出すな!」
「え?」
「火事場泥棒がいるかもしれない!」
町人たちがハッとする。
確かに。
混乱の中なら盗み放題だ。
「庄吉!」
「はい!」
「西の蔵を閉めろ!」
「誰も中へ入れるな!」
「分かりました!」
庄吉は若い衆を連れて走っていく。
その間にも町人たちは必死に水をかけ続けた。
やがて。
「消えたぞ!」
誰かが叫ぶ。
炎は完全に消えた。
焼けたのは東の蔵の一部だけ。
店も、西の蔵も無事だった。
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源兵衛はその場に座り込み、大きく息を吐いた。
「助かった……」
目には涙が浮かんでいる。
「全部なくなったと思った。」
俺も静かに焼け跡を見つめる。
焦げ臭い匂い。
黒く焼けた壁。
明らかに自然発火ではない。
「放火ですね。」
九兵衛が低く呟く。
俺は頷いた。
「でしょうね。」
焼け跡へ近付く。
壁際を見る。
そこには油を染み込ませた布の燃え残りが落ちていた。
「やっぱり。」
「証拠か。」
九兵衛がしゃがみ込む。
「ええ。」
俺は布を拾い上げた。
「最初から蔵を燃やすつもりだった。」
その時だった。
「若旦那!」
庄吉が再び走ってくる。
「大変です!」
「今度は何だ。」
「帳場が!」
一瞬、心臓が跳ねた。
「帳場?」
「帳簿がありません!」
源兵衛が立ち上がる。
「何だと!」
店の中へ飛び込む。
机は荒らされていた。
引き出しは開け放たれ、床には紙が散乱している。
だが。
一番大切な兵糧台帳だけが消えていた。
俺は静かに息を吐く。
なるほど。
敵の目的は火事ではない。
火事は囮だった。
本当に欲しかったのは――。
「台帳か……」
九兵衛が険しい表情になる。
「あれがあれば。」
「どこに、どれだけ米があるか分かります。」
俺はゆっくり頷いた。
「敵は米を奪うつもりじゃない。」
「流れを奪いに来た。」
帳簿さえあれば。
どこを襲えば兵糧が止まるか分かる。
橋。
荷車。
蔵。
そして在庫。
全部が敵に知られてしまう。
俺は焼け跡を見つめながら、小さく笑った。
「……残念だったな。」
「え?」
庄吉が振り返る。
「本物の台帳は、代官所だ。」
一瞬、九兵衛が笑みを浮かべた。
「やはり。」
「あなたなら、そうしていると思いました。」
焼かれた帳場にあったのは、商売用の控え帳。
領内の兵糧をまとめた兵糧台帳は、数日前から代官所で管理していた。
敵は一歩届かなかった。
しかし。
向こうも本気だ。
こちらも、もう守るだけでは終われない。
初めて、敵の尻尾をつかむ時が来た。




