第38話 女神様は冥界の王と交渉する
「……料金を支払いな」
「料金、ですか?」
「ああ。……銅貨二枚だ」
アレクサンドラは目の前の老人に、ポケットの中に入っていた銅貨を渡した。
老人に、船に乗るように促される。
アレクサンドラを乗せた船は、ゆっくりと川を渡り始めた。
「……ここは冥界ですか?」
「まだ冥界ではない。この川を越えたら、冥界だ。今のうちに現世を目に焼き付けておくと良い」
アレクサンドラは離れ行く岸を眺める。
どういうわけか、そこには自分の死を知って嘆く、レオニダスとリコリスの姿が映っていた。
「……ごめんなさい」
アレクサンドラは小さな声で謝った。
そして……同時に思う。
「ポーロワ神はどう御思いになるんだろうか……」
「なぜ、ポーロワ神の名前が出てくる?」
「……恋人だったんです」
「そんなバカな」
船頭の老人は笑った。
「神様の恋人が、そう簡単に死ぬかね?」
「……私の母は死にましたよ」
「母親? お前の母親の名前はなんだ」
アレクサンドラは母親の名前を船頭に告げた。
そして母親がディシウス神の恋人であったこと、そしてアレクサンドラがディシウス神とその母親の子供、つまり半神であることも話す。
「なるほど……あんた、あの女の娘か」
「母を知っているんですか!」
「知っているとも。全ての死者は一度、この冥界に送られるのだから」
船頭は答えた。
アレクサンドラは身を乗り出した。
「で、では……母に会えるのでしょうか?」
「それは分からん。……もうすでに、円環に帰っちまったかもしれん」
「……円環?」
アレクサンドラは首を傾げた。
「冥界は死者が一時的に来る場所だ。……いや、正確には死者じゃない。限りなく死に近いが、冥界にいるうちは生きているのさ。冥界でしばらく過ごした後に……世界の命の流れに帰る。そして本当の意味の死が訪れる」
「へぇ……そうなんですか」
「あんたの母親は、何か悪事をしたか? 人を殺したとか、物を盗んだとか」
船頭が尋ねると、アレクサンドラは首を横に振った。
ディシウス神との浮気を除けば、アレクサンドラの母親はそのような罪は犯していない。
「……いえ」
「なら、もう円環に帰っているだろうな。罪を犯した者は、この地で拷問を受けた後に、円環に帰ることになっているが……一部の例外を除き、特に罪を犯していない者たちはすぐに円環に帰ることになっている。もう十数年も前のことだ……とっくに円環に帰っているだろう」
つまりアレクサンドラは母親に会うことはできない。
それを知り、アレクサンドラは残念そうに溜息をついた。
そして顔を俯かせる。
「おいおい……そんな顔をするな。全ての死者はいずれ死ぬ。そして大いなる流れに帰るのが定めだ。これは目出度いことなのだ。……お前が生前にその身で感じてきた、水や風、草木、動物、そのすべてにお前の母親は宿っていた。分かるか?」
「そして……私もそうなるのですか?」
「そうだ。記憶は失うが……親しい者たちとはすぐに再会できる。安心しろ」
それは安心して良いのだろうか?
と、アレクサンドラは苦笑いを浮かべた。
「しかし……あんたも気の毒だな。まだ若いのに。ユーラ神の嫉妬にやられたのか?」
「いえ、それは分かりません。……でも可能性は高い」
アレクサンドラは弟ないしは兄である、レオニダスのことがとても心配になってきた。
自分がユーラ神に呪われたのだ。
レオニダスも呪われているかもしれないと思うと……気が気でない。
「……どうしても心配なら、ハウリス神に頼むと良い。助けてくれる……か分からないが、お前の弟が来るまでここに置いておいてくれるかもしれんぞ」
「ハウリス神が?」
「そうだ。……お前たち、地上の者はハウリス神を恐れるが、あの方は神々の中でも、一、二を争うお人好しだ」
そうこう話しているうちにアレクサンドラは冥界に辿り着いた。
船頭に例を言い……さらに先へと進む。
「……大きな門」
しばらく進むとアレクサンドラの目の前に大きな門が現れた。
門のすぐ脇には、大きな三頭の首を持った犬の化け物……ケルベロスが寝ていた。
アレクサンドラが近づくと、ケロべロスは一瞬目を開ける。
が、しかしすぐに目を閉じた。
ケルベロスは冥界に入る者に対しては、攻撃しないのだ。
ゆっくりと門が開く。
アレクサンドラは誘われるように、門を潜った。
「お前がアレクサンドラか」
「……はい。ハウリス様」
アレクサンドラの目の前には、青白い顔の老人がいた。
身に纏っている神威は、ディシウス神に匹敵するように感じた。
冥界の王、ハウリス神である。
そして……その傍らには、王妃リセフィア神がいた。
「お前には特に罪はない。お前の罪は全て、現世での行いや罰で清算されている。そのため……一週間この冥界に滞在した後、円環に帰ると良い」
「あの……そのことについてなのですが……」
アレクサンドラがレオニダスをこの冥界で待ちたい。
と、言おうとした時だった。
「ちょっと待った!!!」
そんな聞き覚えのある声が響いた。
アレクサンドラの背後の門が開く。
アレクサンドラは咄嗟に後ろを振り向き……そして目を見開いた。
「ティシアちゃん!」
そこにはなんとティシアがいた。
ティシアはニコニコと笑いながら、アレクサンドラに手を振る。
「久しぶり、アレクサンドラ」
「も、もしかして……あなたもユーラ神に!?」
呪い殺されてしまったのだろうか?
アレクサンドラは心配になった。
するとティシアは笑った。
「違うよ、アレクサンドラお姉様。……そろそろ、本当のことを教えてあげる」
ティシアはそう言うと……
自分の身に掛けていた変身の術を解除した。
そこには黄金の髪の女神が佇んでいた。
ティシア……否、アルティシーナ神は笑みを浮かべていった。
「あなたの可愛い妹は、実はお姉様でした! どう、びっくりした?」
アレクサンドラは開いた口が文字通り塞がらない様子で……
目を見開き、口を開いたまま、呆然としている。
とりあえず放心状態のアレクサンドラは放っておき、アルティシーナ神はハウリス神の前に進み出た。
「お久しぶりです、伯父様」
「……ワシは忙しい。お前と遊んでいる暇はないぞ」
「私も遊んでいる暇はありませんよ」
アルティシーナ神がそう言うと、ハウリス神は額に手を当てて、溜息をついた。
そして尋ねる。
「何の用だ」
「アレクサンドラは後で生き返らせる予定ですから、しばらくこの冥界で留まらせてください」
「はぁ?」
ハウリス神は眉を潜めた。
そして首を大きく横に振る。
「ならん! 死者は死にゆくのが定め! 死人が生き返るようなことはあってはならない!!」
「でもアレクサンドラが死んだのは、あなたのせいでもあるじゃないですか。あなたがあの時、アレクサンドラへの天罰に反対していれば、こうしてアレクサンドラは死ぬことはなかったかもしれません」
「そ、それは……」
思わずハウリス神は言い淀んだ。
ハウリス神は冥界の王をやっているが……神々の中でも、有数に情に厚い神である。
お前のせいで死んだのだ。
と言われてしまうと、ハウリス神は言い返せなくなってしまうのだ。
「それに、可哀想だと思わないのですか? 彼女はまだ十五歳です。……こんなに若くて死ぬんですよ? それに結婚を前提にお付き合いしている恋人だっている。それなのに彼女をこのまま円環に帰して良いと思うのですか?」
「そ、それは……確かに、そうだが……」
「あなた!」
そこでリセフィア神がハウリス神に声を掛けた。
「流されてはダメです!」
自分の嫁の言葉で、ハウリス神は我に返った。
「ならんと言ったらならん! 死者は生き返らないのだ!」
「そういうこと、アルティシーナ。諦めて」
ハウリス神とリセフィア神が言うと……
アルティシーナ神は標的をリセフィア神に変えた。
「リセフィア神、あなただって……この冥界で柘榴を食べたのにも関わらず、地上に帰ることが許されているではありませんか! あなたも規則を破っている!!」
「そ、それは……」
思わずリセフィア神は目を逸らした。
本来、冥界の物を食べた人間は経緯がどうであれ、冥界を出ることはできない。
それにも関わらず、リセフィア神は特例で地上に帰ることが許されているのだ。
「俺からも頼む、ハウリス、リセフィア」
若い男性の声が冥界に響く。
冥界の門をくぐり、新たにやってきたのは……光明神ポーロワである。
「ぽ、ポーロワ様!?」
「俺のことはポーロワで良いと言ったろ? アレクサンドラ」
ポーロワ神はそう言ってから……
ハウリス神に向かい合った。
「アレクサンドラを生き返らせること、そしてそのために冥界に留まり続けることを許してくれ。俺は彼女と添い遂げたいのだ」
「っぐ……」
ハウリス神は苦しそうな表情を浮かべた。
彼は今、仕事への義務感と感情に板挟みにされ、苦しんでいた。
「ちなみにこれはディシウスの意思でもあるよ。あと、マレアスも望んでる。……そしてヴェスタティアも」
「あ、姉上もか!」
ディシウス神は自分の弟であり、そしてまた神々の王だ。
その意向は無視できない。
マレアス神はハウリス神の数少ない友人であり……その願いを無下にできない。
そして……ヴェスタティア神はハウリス神の姉であり、頭が上がらない。
ハウリス神は悩みぬいた末に……
答えた。
「良いだろう。冥界に留めておく。しかし……生き返らせるかどうかは、別だ。そう、だな。アレクサンドラの復活を願う者が、アレクサンドラの復活に見合うだけの何かをしたら、アレクサンドラの復活を認めてやろう」
「さすが、ハウリス伯父様です! 相変わらず、素敵ですね!!」
「……いいから、お前たちは帰れ。それと、アレクサンドラ。もしお前が冥界の物を食べたら、生き返りはなしだ。それと、ワシの仕事を手伝え」
「え……あ、はい!」
あまりの展開について行けず、呆然としていたアレクサンドラだが……
とりあえず、返事だけはした。




