第8話 雪の日から、僕の世界は一つ(アルヴィン視点)
眠れない夜は、いつも、あの雪の日を思い出す。
僕は、窓辺の椅子に深く腰を下ろして、目を閉じた。
まぶたの裏に、白い景色が広がる。
十歳の冬だった。
僕には、もう、帰る家がなかった。
流行り病で、父と母が立て続けに亡くなって。
引き取ってくれた叔父は、僕が邪魔だと言って、真冬の街道に放り出した。
「お前の面倒は、もう見られん。どこへなりと行け」
それが、叔父の最後の言葉だった。
どこへ行けばいいのか、わからなかった。
何日歩いたのかも、覚えていない。
ただ、お腹が空いて、寒くて、足の感覚がなくなって。
大きな屋敷の門の前で、とうとう、膝が折れた。
(ここで、終わりなんだ)
雪が、頬に降り積もる。
不思議と、怖くはなかった。
ただ、眠くて、眠くて。
誰にも、気づかれずに。
このまま、雪の一部になるのだと、ぼんやり思った。
その時だ。
「ねえ! ねえ、起きて!」
小さな手が、僕の肩を、必死に揺すった。
「死んじゃだめ! お願い、死なないで!」
霞んだ視界に、銀色の髪の少女が映った。
頬を真っ赤にして、大きな紅色の瞳に、いっぱいの涙を溜めて。
どうして、この子は、見ず知らずの僕のために、こんなに泣いているんだろう。
そう思いながら、僕の意識は、そこで途切れた。
目を覚ました時、最初に感じたのは、手のあたたかさだった。
誰かが、僕の手を、ぎゅっと握っている。
重たいまぶたを持ち上げると、ベッドの傍らで、あの少女が、うつ伏せになって眠っていた。
まだ、八歳の、小さな女の子。
それなのに、僕の手を握る力は、びっくりするほど強かった。
「……あなたが、助けてくれたんですか」
目を覚ました彼女に、そう尋ねると、彼女はにっこり笑った。
「ええ。もう大丈夫よ。ここは安全だから」
その時、僕は、生まれて初めて、世界の色を知った気がした。
誰かのぬくもりが、こんなにもあたたかいものだったなんて。
誰かが、自分のために泣いてくれることが、こんなにも、胸を満たすものだったなんて。
この人のために、生きよう。
十歳の僕は、その瞬間に、そう決めたのだ。
そして、今。
十八歳の僕は、同じ人を見つめている。
この八年間で、変わったものは、たくさんある。
背が伸びて。剣の腕を磨いて。字を覚えて、数字を覚えて、人の嘘と本音を見抜く目を養って。
お嬢様を守れる人間になるために、あらゆることを、必死で学んできた。
けれど、たった一つだけ、変わらなかったものがある。
それが、あの日から続く、お嬢様への想いだ。
最初は、感謝だった。
やがて、憧れになって。
いつの間にか、それは、息ができなくなるほどの、強烈な執着に変わっていた。
今日の昼、お嬢様は、ミナに、また教科書を貸していた。
「ミナさん、これ、使って。私は、もう必要ないから」
優しい笑顔で、手を差し出して。
ミナは、感激したふりをして、受け取った。
その背中に、僕は、静かな殺意すら覚えた。
あなたは、どうして。
どうして、そんな相手にまで、優しくできるんですか。
その優しさは、本当は、僕だけのものだったはずなのに。
雪の中で倒れていた、ただの孤児に、手を差し伸べてくれたように。
あの優しさを、他の誰にも、分けてほしくない。
醜い感情だと、わかっている。
お嬢様にとって、僕は、「優しい護衛騎士」でしかないのだろう。
それでいい。
今は、それで構わない。
その優しい仮面を、あと少しだけ、被り続けるから。
窓の外が、うっすらと白み始めていた。
夜明けの光が、遠くの空を、淡い紫に染めている。
僕は、椅子から立ち上がって、机の上の帳面を、もう一度開いた。
証拠は、少しずつ揃いつつある。
あとは、舞台を、整えるだけだ。
卒業パーティー。
断罪の、あの夜。
王太子とミナが、お嬢様を陥れようとする、その瞬間を、逆に、彼らへの断頭台に変えてやる。
そのために、僕は、ノートの筋書きを、一字一句、頭に叩き込んである。
彼らが、いつ、どこで、何を言うのか。
どの証拠を、どんなタイミングで出すのか。
すべて、僕の手のひらの上だ。
窓の外で、小鳥が、一羽、さえずり始めた。
新しい朝が来る。
お嬢様にとっては、また、絶望の続きかもしれない。
けれど、僕にとっては、二人きりの未来に、一歩近づく朝だ。
「待っていてください、お嬢様」
帳面を閉じて、静かに笑う。
「あなたが、どれだけ傷ついても。どれだけ泣いても」
一度、言葉を切って。
「最後に、僕の腕の中へ、落ちてくるように」
朝日が、窓から差し込んで、僕の横顔を照らした。
その瞳には、少しの迷いもなかった。




