第7話 逃げ道は、全て僕が塞いだ(アルヴィン視点)
お嬢様が泣き疲れて眠りについたのを、僕は、扉の前で確かめた。
毛布を肩までかけ直して、そっと部屋を出る。
廊下の窓から、冷たい月が、静かに僕を見下ろしていた。
「……ごめんなさい、お嬢様」
誰にも聞こえない声で、呟く。
泣かせてしまった。
僕の手で。
胸の奥がずきりと痛んだ。
それでも、後悔はない。
僕は、自分の部屋へ戻り、机の引き出しを開けた。
そこには、折りたたまれた何通もの書類が、整然と並べられている。
お嬢様が、父君に頼んで作らせた、婚約解消の書類。
一枚目。二枚目。三枚目。
どれも、王宮の受付に届いたあとで、下級文官に金を握らせて抜き取らせ、ここへしまったものだ。
一枚、指先で摘まみ上げる。
お嬢様の、几帳面な署名。
『セレスティア・ローゼンベルク』
美しい文字だった。
こんなにも真剣に、僕から離れようとしていたのだと思うと、胸の奥が、じりじりと焼けるように熱くなる。
「あなたは、本当に、一人で全部解決しようとするんですね」
書類を、蝋燭の火にかざした。
端から、ゆっくりと、茶色く焦げていく。
炎が揺れるたびに、お嬢様の署名が、灰になって崩れていった。
亡命先に選ばれた、隣国の伯母君の件も、同じだった。
お嬢様が書いた手紙は、そのまま届けさせた。
その代わり、伯母君の侍従宛に、もう一通、僕から手紙を送ったのだ。
『お嬢様の身に、近く危険が及ぶ可能性があります。しかし、今の時点で動けば、かえって王家の疑いを深め、お嬢様のお立場を悪くする恐れがございます』
『どうか、しばらくの間は、お返事を控えめにされますよう』
嘘ではない。
ただ、半分だけ、事実を誇張しただけだ。
伯母君は、可愛い姪を思うがゆえに、慎重な返事を書いた。
そして、お嬢様は、その返事を読んで、絶望した。
侍女のリタにも、友人のエミリアにも、それぞれの事情に合わせて、少しずつ「理由」を与えた。
リタの母君が、本当に病に伏していたことは、調べてわかっていた。
だから、彼女がためらいなく暇を取れるよう、少しだけ後押しした。
エミリアの家には、王太子派の貴族からの圧力がかかり始めていた。
だから、「お嬢様と距離を置いたほうが、御家のためになる」と、それとなく耳に入れた。
どれも、嘘は言っていない。
事実を、少しだけ、都合のいい形に並べ替えただけ。
一つずつ、一つずつ。
お嬢様の周りから、人を剥がしていく。
僕は、机の奥から、もう一つの帳面を取り出した。
お嬢様のものではない。
僕自身が、少しずつ書き溜めてきた、記録だ。
王太子レオンハルトの、公金の使い込み。
王宮の会計係との、不透明な取引。
ミナ・リーヴェが、他の令嬢たちに仕掛けてきた、陰湿な嫌がらせの数々。
その嫌がらせを、裏でレオンハルトが黙認していたこと。
ページをめくるたびに、証拠の数が増えていく。
帳簿の写し。証言の書き留め。使用人たちの噂話。
お嬢様のノートを読んで、僕はすべてを知った。
だから、先回りして、準備を始めた。
お嬢様を断罪から守るために。
そして。
お嬢様を、僕の手の届く場所に、縛りつけておくために。
「……矛盾していますね」
自嘲気味に、笑みが漏れた。
守りたい。
けれど、閉じ込めたい。
救いたい。
けれど、離したくない。
その二つの願いは、僕の中で、同じ根から生えている。
ふと、あの教科書事件の日の光景が、脳裏によみがえった。
図書室の前で、僕は扉に背を預けて、立っていた。
その日の昼に、お嬢様へこう勧めたのだ。
「今日の放課後は、図書室で過ごされてはいかがでしょう」
ノートには、書いてあった。
『序盤イベント:教科書破損事件。犯人は、悪役令嬢の取り巻き。ヒロインが泣き、王太子が詰問する』
日付までは、書かれていなかった。
けれど、僕は、ミナの動きをずっと観察していた。
前日の夕方、彼女が人気のない教室で、自分の教科書をわざと破いている場面を、この目で見ていたのだ。
あの子は、涙を流して泣き崩れる、その瞬間のために、自分で自分の持ち物を引き裂いていた。
そして、僕のお嬢様に、その罪を着せようとしていた。
『セレスティア様では、ないですよね?』
あの時、ミナが向けた、わざとらしく震える声。
思い出すだけで、腹の底が、ぞわりと冷たくなる。
許せない。
絶対に、許さない。
けれど、あの場で僕が、真相をぶちまけてしまったら、どうなる?
お嬢様は、ミナに優しくし続けた、ただの被害者になる。
それでは、お嬢様は、「自分の力で何とかなる」と思い続けてしまう。
まだ、足りない。
あの人が、完全に追い詰められて。
誰にも頼れなくなって。
最後に、僕だけを選んでくれるように。
そのためには、あと、少しだけ。
「……あと少しだけ、我慢してください。お嬢様」
蝋燭の火が、じじ、と音を立てて揺れた。
灰になった書類の欠片が、机の上に、静かに散らばっている。
僕は、それをそっと手のひらで集めて、窓の外へ、さらさらと撒いた。
風に乗って、灰は、闇の中へ溶けていく。
まるで、お嬢様の逃げ道が、一つずつ、消えていくように。
「あなたが誰かに頼るなんて、許せないんです」
夜の空に向かって、囁く。
「あなたの手を握るのは、僕だけでいい」
その声には、懺悔の響きも、後悔の色も、少しも混じっていなかった。




