第5話 優しくするほど、噂は広がる
入学から、ひと月が過ぎた。
私の破滅回避計画は、今のところ順調に進んでいる……はずだった。
「ミナさん、今日の薬草学の教科書、お忘れになったのでしょう? よければ、私のをお貸しするわ」
「えっ! い、いいんですか? セレスティア様の教科書を……」
「ええ。私は予習で内容を覚えているから、大丈夫よ」
にっこり微笑んで差し出すと、ミナは両手で教科書を受け取って、ぱっと花が咲くように笑った。
「ありがとうございます! セレスティア様って、本当にお優しいですね!」
その笑顔は、どこから見ても無邪気で、可愛らしい。
(よし。いい調子)
私は心の中で、小さく拳を握った。
教科書を貸す。移動教室の場所を教える。昼食に誘う。
ゲームの悪役令嬢がやらなかったことを、一つずつ、丁寧に積み重ねていく。
これで、ミナとの間に敵対関係は生まれない。
そう、信じていた。
「ねえ、セレスティア様」
昼休み。中庭のベンチで、友人の伯爵令嬢エミリアが、周囲を気にするように声をひそめた。
「少し、お耳に入れておきたいことがあるのですけれど」
「なあに? 改まって」
「その……最近、学園で妙な噂が流れているんです」
エミリアは言いにくそうに、指先をもじもじと絡ませる。
「セレスティア様が、ミナさんを呼び出して、あれこれ命令していると」
私は、持っていたパンを、危うく取り落としそうになった。
「……私が? 呼び出して、命令?」
「ええ。放課後に空き教室へ連れていって、『私の言うことを聞きなさい』と脅していた、とか。ミナさんが、泣きながら友達に話していたそうで」
「そんなことしていないわ!」
思わず、大きな声が出てしまった。
慌てて周囲を見回すと、近くにいた生徒たちが、ちらりとこちらを窺っている。
視線が、痛い。
「もちろん、私は信じていません。セレスティア様がそんな方でないことは、よく知っていますもの」
エミリアは慌てて首を振った。
「でも、ミナさんは、あんなに可愛らしい方でしょう? 皆さん、つい、そちらを信じてしまうみたいで」
(そんな……)
背筋が、すっと冷えた。
私は、ミナに優しくしてきたはずだ。
それなのに、その優しさそのものが、「命令」や「呼び出し」という形にすり替えられて、噂になっている。
(これも、強制力……?)
ゲームの中の悪役令嬢は、確かにヒロインをいじめていた。
けれど私は、まだ何もしていない。
何もしていないのに、何かをしたことにされていく。
足元の地面が、ぐらりと揺れた気がした。
その日の放課後。
事件は、起こった。
「きゃあああっ!」
中庭の噴水の前で、甲高い悲鳴が上がった。
駆けつけた私の目に飛び込んできたのは、びりびりに破かれた、何冊もの教科書。
水に浸かって、ページがふやけて、無残な姿で噴水の中に浮かんでいる。
その前で、ミナが両手で顔を覆い、肩を震わせていた。
「ひどい……どうして、こんなことを……」
「ミナ! どうしたんだ!」
人垣をかき分けて、金髪の青年が駆け寄ってくる。
王太子レオンハルトだった。
「殿下……私の教科書が……」
「誰がこんなことを。許せない」
レオンハルトが、怒りを滲ませた声で周囲を見回す。
その時、ミナが、泣き濡れた瞳をこちらに向けた。
「まさか……セレスティア様では、ないですよね?」
しん、と、中庭が静まり返った。
無数の視線が、一斉に私へ突き刺さる。
(来た……!)
これは、ゲームの序盤の、断罪への布石になるイベントだ。
取り巻きが教科書を破り、ヒロインが泣き、悪役令嬢が疑われる。
ただし本来は、セレスティアが実際に指示を出していた。
今回、私は何もしていないのに。
「私ではありません」
私は、まっすぐにレオンハルトの碧い瞳を見返して、はっきりと言った。
「誓って、私は何もしておりません」
「証拠は?」
冷え切った声が、返ってきた。
「そなたが関与していないという、証拠はあるのか、セレスティア」
(証拠なんて、あるわけが……)
言葉に詰まった、その時だった。
「失礼いたします」
低く、落ち着いた声が、人垣の後ろから響いた。
アルヴィンが、一歩前に進み出る。
「ローゼンベルク家の護衛騎士、アルヴィンと申します。恐れながら、一言申し上げてもよろしいでしょうか」
「……言ってみろ」
「本日の放課後、お嬢様は、図書室におられました。入室から今この時刻まで、僕が扉の前でお守りしておりました」
淡々と、けれどよく通る声。
「司書の方も、お嬢様の姿を確認しているはずです。ご確認いただければ」
レオンハルトが、近くの生徒に目配せをする。
しばらくして、走っていった生徒が戻ってきて、小声で何かを告げた。
王太子の眉が、わずかに動く。
「……確かに、司書は、そなたが図書室にいたと証言している」
「はい」
「では、今回の件は、そなたとは無関係のようだな」
それだけ言うと、彼は踵を返して、ミナの肩に手を添えた。
「行こう、ミナ。犯人は、必ず見つけ出す」
泣き続けるミナを連れて、レオンハルトは去っていった。
人垣が、ざわめきながら散っていく。
その中で、私は、膝が震えて、しばらく動けなかった。
「お嬢様」
アルヴィンが、そっと私の隣に立つ。
「大丈夫ですか。お顔の色が」
「……ありがとう、アルヴィン」
私は、やっとのことで笑みを作った。
「あなたがいてくれなかったら、どうなっていたことか」
「当然のことです。お嬢様をお守りするのが、僕の務めですから」
彼は、ほっとしたように、穏やかに微笑んだ。
(そういえば……)
ふと、思い出す。
今日の昼休み、彼は珍しく、こう言ったのだ。
『お嬢様、今日の放課後は、図書室で過ごされてはいかがでしょう。静かで、ゆっくり予習ができますよ』
(偶然って、すごい。あのひと言のおかげで、助かったんだわ)
私は、心の底から、彼に感謝した。
その偶然が、本当に偶然だったのかどうか、疑うことすら、思いつかないまま。




