第4話 ノートの中の世界(アルヴィン視点)
その夜、屋敷が寝静まったのを確かめてから、僕は、お嬢様の部屋の前に立った。
扉の向こうからは、規則正しい寝息が聞こえる。
今日は入学式で、さぞお疲れだったのだろう。ベッドに入ってから、まだ四半刻も経っていない。
僕は静かに息を吐いて、懐から、小さな銀色の鍵を取り出した。
四年前、彼女が机の引き出しに鍵をかけるようになった時に、錠の形を覚えて作らせたものだ。
音もなく扉を開け、足音を殺して中へ入る。
月明かりに照らされた寝顔は、あどけなくて、守ってあげたくなるほどに、綺麗だった。
「……失礼します、お嬢様」
小さく、囁いて。
僕は机の前に膝をつき、そっと、引き出しの鍵を回した。
取り出したのは、革張りの古いノート。
表紙には、見慣れた文字が並んでいる。
『破滅回避ノート ~絶対に生き延びる~』
僕にとって、これは、世界で一番大切な書物だった。
ページを開く。
この国の人間には、誰一人として読めない文字。
流れるような曲線と、直線の混ざり合った、不思議な記号の連なり。
けれど、僕には、もう読める。
最初に違和感を覚えたのは、お嬢様が高熱から目覚めた、あの日の夜だった。
水を替えに部屋へ入ると、お嬢様は、見たこともない文字で、必死にノートを埋めていた。
「お嬢様、何を書いておられるのですか?」
「え!? あ、あの、日記よ。ただの日記」
慌ててノートを閉じる、青ざめた横顔。
「そうですか。失礼いたしました」
僕は何も気づかなかったふりをして、微笑んで、部屋を出た。
けれど、廊下に出た瞬間から、頭の中ではずっと、あの見知らぬ文字が渦を巻いていた。
それから、四年。
お嬢様が寝言で呟く言葉。ひとりごと。書き損じて捨てた紙。
それらを、一つ残らず、少しずつ集めて、照らし合わせた。
文字の形と、音の響き。単語の並びと、意味の推測。
誰にも教わらず、誰にも悟られず、僕は独りで、その言語を解き明かした。
初めて一文を、まるごと読めた夜のことを、僕は今でも覚えている。
『最悪の場合、処刑』
全身の血が、凍りついた。
次の瞬間には、腹の底から、どす黒い何かが湧き上がってきた。
この人を、殺す?
あの雪の日、凍え死にかけた僕の手を、必死に握ってくれた、たった八歳の少女を?
誰が。誰の、何のために?
答えは、すぐにノートの中に書いてあった。
王太子レオンハルト。そして、ヒロイン、ミナ・リーヴェ。
あの二人が、お嬢様を陥れる。
そのためだけに用意された、悪役という役割。
許せるはずが、なかった。
僕は、ノートの頁をめくる。
そこには、お嬢様が考え抜いた、破滅回避の計画が、几帳面な文字で並んでいる。
『ヒロインにはとにかく優しく』
『王太子との婚約は穏便に解消』
『国外の親戚に連絡を取っておく(亡命ルート確保)』
『信頼できる味方を増やす』
一行ずつ、指でなぞる。
どれも、健気で、必死で、いじらしい。
この人は、本気で、自分の力だけで、運命に抗おうとしている。
(お嬢様……)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
けれど同時に、僕は、気づいてしまった。
この計画が、うまくいったらどうなるか。
お嬢様は、断罪を免れる。
王太子との婚約は解消され、自由の身になる。
亡命ルートを使って、別の国へ行ってしまうかもしれない。
それは、つまり。
(僕のそばから、いなくなる、ということだ)
その考えが浮かんだ瞬間、指先から、すうっと温度が引いていった。
嫌だ。
それだけは、絶対に、嫌だ。
お嬢様を、断罪から守りたい。
それは、本心だ。
けれど、僕の知らない場所で、僕の知らない誰かに頼って、僕の手の届かないところで、笑ってほしくない。
だったら。
僕は、ゆっくりと、ノートを閉じた。
「……断罪は、起きますよ、お嬢様」
静かに、囁く。
「ただし、その舞台を整えるのは、王太子でも、ヒロインでもない」
ノートを元の場所に戻し、鍵を締めた。
ベッドの傍らへ歩み寄る。
眠っているお嬢様の顔を、じっと見つめた。
長い銀色の睫毛。
かすかに開いた、柔らかな唇。
この人は、今日も、僕を信じて、微笑んでくれた。
「あなたが、全部の逃げ場を失って」
そっと、指先で、頬にかかった髪を払う。
「それでも、最後に頼れるのが、僕だけになるように」
窓の外で、風が、花びらを舞い上げた。
「僕が、全部、仕組みます」
お嬢様は、何も知らないまま、小さく寝返りを打った。
その寝顔に、僕は、跪くように頭を垂れる。
「おやすみなさい。僕の、お嬢様」
月明かりの中で、僕の唇には、うっすらと、笑みが浮かんでいた。




