第19話 私の選択
その夜、私は、眠れなかった。
自室の机の上には、伯母様からの手紙と、銀色の鍵。
そして、引き出しから取り出した、古びた破滅回避ノート。
私は、ノートの最初のページを、そっと開いた。
『破滅回避ノート ~絶対に生き延びる~』
十二歳の私が、震える手で書いた文字。
ページをめくるたびに、六年間の、必死だった日々がよみがえる。
赤い線で消された計画。
インクの滲んだ、涙の跡。
そして、気づいてしまった。
ノートのところどころに、ほんの小さな、鉛筆の印がつけられていることに。
「処刑」という文字の横に、小さな丸。
「階段イベント」の横に、日付のメモ。
そして、最後のページの、隅の隅。
この国の文字で、小さく、こう書き込まれていた。
『この人を、必ず生かす』
(……アルヴィン)
指先で、その文字をなぞる。
何度も、何度も、上から書き直したような、濃い筆圧。
この六年間、彼は、私が眠るたびにこのノートを開いて、私と同じ破滅を、一緒に見つめていたのだ。
ふと、前世の記憶がよみがえる。
画面の中の、悪役令嬢セレスティア。
「この子、誰にも本当のことを知ってもらえないまま、終わっちゃうんだよね」
そう呟いた夜のこと。
ゲームの中のセレスティアには、最後まで、味方が一人もいなかった。
誰も、彼女の本当の姿を見ようとしなかった。
私は、ノートを閉じた。
(でも、私には、いた)
私が別の世界の記憶を持っていることを知っても、気味悪がらなかった人。
私が悪役令嬢になる運命だと知っても、離れていかなかった人。
私の弱さも、ずるさも、必死さも、全部知った上で、それでも、傍にいることを選んだ人。
やり方は、間違っていた。
ひどくて、怖くて、許せないことばかりだった。
けれど。
(あの人がいなければ、私は今頃、本当に断罪されていたのかもしれない)
王太子とミナは、私が何をしようと、私を陥れるつもりだった。
あの温室で交わされた言葉が、それを何よりも物語っている。
アルヴィンが筋書きを整えなくても、彼らはきっと、別の証拠を用意して、私の首を絞めていた。
私は、伯母様からの手紙を手に取った。
そして、封を切らないまま、そっと、引き出しの奥にしまった。
翌朝。
玄関ホールに、馬車の用意ができていると、執事が告げに来た。
私は、旅支度ではなく、いつもの普段着のまま、階段を下りた。
ホールの隅に、アルヴィンが立っていた。
目の下に、うっすらと隈がある。
彼も、一睡もしていないのだろう。
私の姿を見て、その灰色の瞳が、わずかに揺れた。
「お嬢様……」
「馬車は、いらないわ」
私は、執事に告げてから、まっすぐアルヴィンの前まで歩いていった。
彼を見上げる。
あの日、雪の中から助け起こした小さな少年は、今、こんなにも背が高い。
「答えを、言いに来たの」
「……はい」
アルヴィンの喉が、小さく動いた。
判決を待つ罪人のように、彼は、じっと私の言葉を待っている。
私は、深く息を吸った。
「あなたは、ひどい人よ。私を泣かせて、騙して、ひとりぼっちにした」
「はい」
「一生、許さないかもしれない」
「……はい」
「だから」
私は、彼の手を取った。
あの夜、私の手を包んでくれた、大きな手。
「一生、私の傍で、償って」
アルヴィンの目が、見開かれた。
「あなたが黒幕でも、私はもう逃げません」
はっきりと、そう告げる。
「その代わり、条件があるわ。これからは、隠し事はなし。私に関わることは、全部、私に話して。勝手に、私の逃げ道を塞いだりしないで」
「お嬢様……」
「逃げ道なんて、塞がなくていいの。私は、自分の足で、あなたの隣にいることを選ぶから」
しばらく、アルヴィンは、何も言わなかった。
やがて、その灰色の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
初めて見る、彼の涙だった。
「……はい」
かすれた声で、彼は答えた。
「誓います。この命の、続く限り」
そして、ゆっくりと、私の手の甲に、唇を寄せた。
騎士の誓いの、口づけ。
けれど、顔を上げた彼は、もう、ただの護衛騎士の顔をしていなかった。
「セレスティア」
初めて、名前を呼ばれた。
胸の奥が、きゅうっと音を立てる。
「愛しています。あの雪の日から、ずっと」
「……知ってるわ」
頬が熱くなるのを感じながら、私は、小さく笑った。
「昨日、嫌というほど、聞かされたもの」
アルヴィンが、泣きながら、笑った。
そして、私を、強く、強く、抱きしめた。
今度は、私も、自分から、その背中に腕を回した。
それから、ひと月後。
国王陛下から、アルヴィンに、王太子の不正を暴いた功績として、子爵位と小さな領地が与えられた。
父は、渋い顔をしながらも、私たちの結婚を許してくれた。
「あの男には、敵に回したくないものを感じる」
そう、ぼそりと呟いた父の言葉に、私は、思わず吹き出してしまった。
お父様、それは正しい判断です、と。
心の中で、そっと付け加えながら。




