第18話 理由
夜風が、二人の間を吹き抜けていった。
私は、門の石柱に背中を預けたまま、膝をつくアルヴィンを見下ろしていた。
怒るべきなのだと、思う。
泣いて、責めて、詰るべきなのだと。
それなのに、口から出てきたのは、たった一言だった。
「……どうして?」
アルヴィンは、顔を上げた。
灰色の瞳が、月明かりを受けて、静かに光っている。
「最初は、お嬢様をお守りしたかった。それだけでした」
彼は、ゆっくりと語り始めた。
「『最悪の場合、処刑』。あの一行を読んだ夜、僕は、王太子とミナ嬢を、この手で消してしまおうかと考えました」
ぞくり、と、背筋が冷える。
冗談の響きは、どこにもなかった。
「けれど、それでは、お嬢様が疑われるかもしれない。だから、証拠を集めることにしたんです。あの二人が、自分で自分の首を絞めるように」
「それなら……私の計画を、邪魔する必要なんて、なかったじゃない」
「ええ。ありませんでした」
あっさりと、彼は認めた。
「お嬢様の計画は、どれも、うまくいくはずでした。婚約は解消され、伯母君のもとへ身を寄せ、穏やかに暮らせたかもしれない」
「だったら、どうして」
「そうなったら、お嬢様は、僕の手の届かないところへ、行ってしまうでしょう?」
言葉を、失った。
アルヴィンは、困ったように、少しだけ眉を下げて笑った。
「ノートの中に、僕の名前は、一度も出てきませんでした」
その声は、ひどく静かだった。
「亡命先の計画にも。味方を増やす計画にも。信頼できる人の一覧にも。お嬢様の未来のどこにも、僕は、いなかった」
「それは……っ」
違う、と言いかけて、言葉が止まった。
違わない。
ゲームに登場しない彼のことを、私は、筋書きの外にいる人だと思っていた。
頼りにはしていた。けれど、破滅を回避した先の未来に、彼を連れていくことまでは、考えたこともなかった。
「だから、決めたんです」
アルヴィンは、そっと、私の手を取った。
振りほどくことも、できたはずなのに。
私の指は、動かなかった。
「あなたが逃げ場を失えば、僕だけを頼ってくれるから」
月の下で、彼は、ささやくように言った。
「書類を燃やすたびに、胸が痛みました。お嬢様が泣くたびに、自分を殺したくなりました。それでも、やめられなかった」
握られた手に、少しだけ、力がこもる。
「お嬢様が、僕の胸で泣いてくださった夜。あの時、僕は、生まれて初めて、満たされたと思ったんです」
(……あの夜)
蜂蜜入りのミルク。
「あなたは、私から離れていい」と言った私に、彼は首を振った。
私は、子どものように泣いて、彼にすがった。
あの時の、背中に回された腕のあたたかさを、今も覚えている。
それが、全部、彼の手のひらの上だったなんて。
「……ひどい人」
ようやく、それだけ言えた。
涙が、頬を伝って落ちる。
「本当に、ひどい人……!」
「はい」
アルヴィンは、否定しなかった。
「どんな罰でも、お受けします」
そう言って、彼は、私の手のひらに、何かを載せた。
あの、銀色の鍵だった。
そして、もう一つ。
封蝋の押された、一通の手紙。
「これは……?」
「伯母君からの、本当のお返事です。僕が送った手紙の誤解を解いて、改めていただいたものです」
私は、震える指で、封を見つめた。
「『いつでも、あなたを迎え入れる』と、お返事をいただいています。馬車も、手配してあります。明日の朝には、出発できます」
「……どういう、こと?」
「お嬢様が、僕から逃げたいと思われるなら」
アルヴィンは、まっすぐに、私を見上げた。
「今度こそ、僕は、止めません」
夜風が、ぴたりと止んだ気がした。
「全部をお話しした上で、それでも、お嬢様が僕を恐れるなら。その時は、僕は、二度とお嬢様の前に姿を現しません」
嘘だ、と思った。
この人が、本当に、私を手放せるはずがない。
けれど、灰色の瞳は、どこまでも真剣で、そして、ひどく怯えていた。
まるで、あの雪の日に倒れていた、小さな少年のように。
「ただ、一つだけ」
彼の声が、かすかに震えた。
「全て僕が仕組んだと知っても、僕を選んでくれますか」
その問いに、私は、すぐには答えられなかった。
手のひらの上で、鍵と手紙が、ひどく重たく感じられた。
逃げ道は、今、ここにある。
初めて、彼自身の手で、差し出された逃げ道が。




