第17話 全部、あなただったの?
アルヴィンに連れられて向かったのは、ローゼンベルク邸の正門だった。
王宮から戻った馬車を降りると、空はもう、群青色に沈みかけている。
春の終わりの夜風が、門の脇の植え込みを、さわさわと揺らしていた。
「ここで、よろしいでしょうか」
「……ええ」
私は、門の石柱に、そっと手を触れた。
ひんやりとした感触。
ここは、あの冬の日に、私が彼を見つけた場所だ。
十年前の雪は、もう、どこにもない。
けれど、アルヴィンは、まるで今もそこに雪が積もっているかのように、足元の地面を、じっと見つめていた。
「お話というのは、何?」
私が尋ねると、彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「お嬢様に、お返ししなければならないものが、あります」
そう言って、彼は、懐から何かを取り出した。
月明かりに、小さく光る。
銀色の、鍵だった。
(……え?)
見覚えがある。
いいえ、見覚えがあるどころではない。
私は、とっさに、自分の胸元を押さえた。
寝巻きのときも、ドレスのときも、肌身離さず持ち歩いている、机の引き出しの鍵。
それは、今も、ちゃんとそこにある。
なのに、彼の手のひらの上にも、同じ形の鍵があった。
「それ……どうして」
「六年前に、作らせました」
アルヴィンは、静かに答えた。
「お嬢様が、引き出しに鍵をかけるようになった、あの年に」
喉が、からからに乾いていく。
引き出しの中にあるのは、ただ一つ。
日本語で書いた、破滅回避ノートだけだ。
「……でも、中を見たって、読めないでしょう?」
声が、自分でもわかるくらい、上ずっていた。
「あれは、この国の文字じゃないもの。誰にも、読めるはずが」
「『はめつかいひノート。ぜったいに、いきのびる』」
時間が、止まった。
彼が口にしたのは、この世界の言葉ではなかった。
ぎこちない発音。けれど、間違いなく。
前世の、私の言葉だった。
「……う、そ」
膝から力が抜けて、私は、門の石柱にすがりついた。
「ヒロインには、とにかく優しく。王太子との婚約は、穏便に解消。国外の親戚に連絡を取っておく。信頼できる味方を、増やす」
アルヴィンは、一つずつ、ゆっくりと読み上げていく。
まるで、何度も何度も、繰り返し読んできた詩を、そらんじるように。
「最悪の場合、処刑」
最後の一行を口にした時だけ、彼の声が、わずかに低くなった。
私は、震える唇で、やっとのことで問いかけた。
「いつから……」
「お嬢様が熱から目覚めた、あの夜から。読めるようになるまでには、何年もかかりましたが」
「全部、知っていたの? 私が、別の世界の記憶を持っていることも」
「はい」
「ここが、物語の世界だということも」
「はい」
「卒業パーティーで、断罪されるはずだったことも」
「すべて、存じておりました」
頭の中で、これまでの出来事が、一気に繋がっていった。
まるで、絡まっていた糸が、するすると解けていくように。
図書室を勧められた、あの日。
あまりにも整いすぎていた、あの夜の断罪劇。
騎士団長と、大司教の立会い。
三年分の、証拠の帳面。
「……婚約解消の書類が、届かなかったのは?」
アルヴィンは、目を伏せなかった。
まっすぐに、私を見つめたまま、答えた。
「僕が、燃やしました」
息が、詰まる。
「伯母様が、私を受け入れてくださらなかったのは?」
「僕が、伯母君に手紙を送りました。今動けば、お嬢様の立場が悪くなる、と」
「リタが、辞めてしまったのは」
「お母君のご病気は、本当です。ただ、迷っていた彼女の背中を、押しました」
「エミリアが、離れていったのは」
「王太子派の圧力が、かかっていたのは事実です。そこに、一言、添えました」
淡々と並べられていく答え。
一つ聞くたびに、胸の奥の何かが、音を立てて崩れていく。
この三年間、私が泣いた夜の、すべての理由。
それが、目の前の、この人だったなんて。
「じゃあ……」
私は、ぎゅっと、目を閉じた。
一番聞きたくない問いを、それでも、口にした。
「あの断罪も、全部……」
「はい」
穏やかな声が、夜の静寂に落ちた。
「断罪の筋書きを、王太子とミナ嬢に用意したのは、僕です」
目を開ける。
月の光の中で、アルヴィンは、少しも悪びれずに、微笑んでいた。
いつもと、何一つ変わらない、優しい護衛騎士の顔で。
「全部、あなただったの……?」
かすれた声で、そう問いかけると。
彼は、ゆっくりと、私の前に、片膝をついた。
「はい、お嬢様」
十二歳の夜と、同じ姿勢で。
「全部、僕です」




