第8話:「迎えに行ってやるから戻れ」という手紙が届きましたが
セドリックからの手紙は、正式な婚約解消の通知が届いた数日後に来た。
封筒の宛先には、ゼルク城の名がある。
手続きの書類には私への連絡先が記されていた。居場所を知った彼が、代書人を通さず私信を送ってきたのだ。
「お預かりしておきましょうか」
マルタが尋ねた。
私は少し考え、受け取ることにした。
ここに手紙が届くことと、彼の言う通りにしなくてはならないことは、もう別だった。
『エレノアへ。
他国へ家出した挙げ句、裁判所まで頼るとは呆れたものだ。
だが、帳簿と申請の遅れを片づけるなら、今回のことは水に流してやってもいい。父上にも、私から取りなしてやる。
融資の請求は取り下げろ。元通りに働けば、婚約の結び直しも考えてやる。
国境の駅馬車乗り場まで戻れ。迎えは用意してやる。
リリアンへの謝罪も忘れるな。セドリック』
便箋を読み終え、私はゆっくり折り畳んだ。
最後まで、私の無事を尋ねる言葉はなかった。
「……エレノア」
打ち合わせに来ていたクラウスが、少し離れた場所から声をかけた。
手紙を取り上げることも、見せろと言うこともしない。
私は彼へ向き直った。
「仕事を片づければ、また婚約してくださるそうです」
クラウスの眉が険しくなる。
「君は、どうしたい?」
「お断りします。返事をするなら、ベネットさんから正式に」
口にすると、それで用件は終わった。
何時間も彼の言葉を解読し、機嫌を損ねない返事を考える必要はないのだ。
私はマルタに頼み、手紙を法務官へ渡すための封筒を用意してもらった。婚約を結び直す意思も、侯爵家へ戻る意思もないと、ベネットから通知してもらうことにした。
「燃やしてしまいたい気もしましたけれど、念のため保管していただきます」
「そうだな。返事のために、昼食が冷めることもない」
クラウスの言葉に、私は窓の下の時計を見た。
もう約束の時間だった。
その日は街の食堂へ出ることにしていた。クラウスが薦めたのは、城から歩いて行ける、窓辺に鉢植えの並ぶ小さな店だった。
護衛は入口近くの席につき、私たちは奥の卓へ座った。
「ここへ、よくいらっしゃるのですか」
「父と来たことがある。領主になる前だが」
彼は少し懐かしそうに、柱の古い傷を見た。
厳格な先代は、ここでは皿の最後の煮豆を息子へ譲ったという。
仕事の話でしか知らなかった父親が、その短い思い出で、私にも少し近く感じられた。
「お好きだったのですね」
「ああ。もう一度、相談したいことはいくらでもある」
私は何か励ます言葉を探し、やめた。
代わりに、彼の皿へパンの籠を寄せた。
「今日は、ゆっくり食べましょう」
クラウスが私を見る。
やがて小さく頷き、パンを取った。
食後には、蜂蜜をかけた林檎の焼き菓子が運ばれてきた。
私が前日に店へお願いしておいたものだ。
「覚えていたのか」
「忘れませんよ。閣下の貴重な弱点ですから」
「君に話したのは、失敗だったな」
そう言いながら、彼は笑っていた。
私が匙を取る前に、菓子をきちんと半分に分けてくれる。
その半分を受け取った時、昼前の便箋が、急に遠いものになった。
帰り道、冷たい風が吹いた。
私が外套の襟を押さえると、クラウスが歩みを止めた。
「手を、借りても?」
差し出された手を見て、私は頷いた。
手袋越しでも、彼の指は温かかった。
迎えに来てやる、と書かれた手紙は、城で封筒に収まっている。
私は今、自分が一緒に帰りたい人の手を握っていた。




