第7話:過去と縁を切る書類に、私の名前で署名します
国境を越えて三週間が過ぎた頃、実家から荷物が届いた。
箱の中には普段着と本、それに母の手紙が入っていた。
『もっと早く話してくれてよかったのよ。でも、話せなかったことまで責めるつもりはありません。今、無事でいてくれてありがとう』
何度も読み返して、私はそっと手紙を畳んだ。
侯爵家との婚約が決まった頃、実家は不作と父の療養費で苦しかった。その後は領地の収支も持ち直したのに、私はいつまでも、家のために婚約を守らなくてはと思っていた。
困った顔を見せなければ、皆を安心させられる。その思い込みで、助けを求める機会まで塞いでいたのかもしれない。
午後、城の応接室で法務官と面談した。
王都のベネットから届いた書類には、王国の家事審判所が婚約解消を認めたことが記されていた。
私の申し立てに加え、宿場の受領記録、女将の証言、そして御者の陳述が揃ったという。
「御者の方は、大丈夫でしょうか」
「すでに侯爵家を辞め、別の商家に雇われたそうです。ベネット氏が、証言を理由に不利益を受けないよう確認しています」
胸のつかえが一つ下りた。
セドリックは解消に反対したものの、置き去りの事実そのものは否定できなかった。ローガン侯爵も最終的に争わない意向を示したらしい。
次は融資の確認だった。
元本は金貨二千四百枚。実家の金ではなく、私が商家の帳簿整理や取引の仲介で得た報酬を、数年かけて貸し付けたものだ。
別に、契約書へ明記されながら未払いになっていた三年分の業務報酬が、六百枚あった。
「合計で三千枚。ただし、請求できることと、すぐ全額戻ることは別です」
法務官が穏やかに説明する。
追加融資の停止後、使途を確かめる過程で、工事用の金が私的支出へ回った疑いが出た。ベネットは借用証の条項に従い、十四日の期限を設けて返済を請求している。
支払われなければ、王国の裁判所へ財産の保全を申し立てることになる。
「ベネット氏が王国側の手続きを進めます。こちらでは、届いた書類の確認と連絡をお手伝いします」
「領民への支払いや工事は、どうなりますか」
「生活に必要な支出を確保した上での返済計画を求めましょう。財務局にも、工事費の件を報告します」
私は頷き、請求内容を確かめて、代理人への指示書に署名した。
あの人の顔を思い出すために、これからの毎日を使いたくはない。だが、取り戻すべきものまで、なかったことにしたくなかった。
最後に渡されたのは、帝国での就労を認める滞在許可証だった。
試用中の経歴照会も問題なく済み、私は国境伯領の正式な通商補佐官となる。
「この許可は、王国の国籍のままで更新できるのですね」
私が確認すると、同席していたクラウスが頷いた。
「ああ。将来、国籍も変えたいと思ったなら、その時に考えればいい。ここで働き暮らす許可は、それとは別にある」
「婚約者だった方が、迎えに来たと言っても?」
彼の表情が静かに引き締まった。
「婚約は、相手を連れ去る権利ではない。解消前であっても、君が断ればいい」
私は許可証に目を落とした。
そこにある自分の名前を、指先でなぞる。
誰かの婚約者という肩書きが消えても、エレノア・ハミルトンは、ここにいていいのだ。
面談の後、クラウスは廊下で私を待っていた。
「少し、歩くか」
「はい」
庭へ出ると、風に葉が鳴った。
母の手紙を読んだことを話すと、彼は急がずに聞いてくれた。話し終えた私が息を吐いた時、彼は何も尋ねず、歩く速さを緩めた。
「今日は、これ以上頑張らなくてもいいですか」
「ああ」
少し迷ってから、私は付け加えた。
「では、もう少しだけ。一緒に歩いてください」
クラウスの手が、私の方へ差し出された。
今度はよろめいたからではない。
私はその手に、自分の手を重ねた。




