第6話:氷の国境伯は、昼食の誘い方を知らない
ゼルク城で働き始めて十日。
私は仕事が楽しくて、つい机へ向かう時間を延ばしていた。
運送組合から回答が届き、試験運行の日程も決まった。以前なら一人で追いかけていた連絡を、今は担当者が受け持ってくれる。
そのぶん働ける、と考えてしまったのがいけなかった。
「エレノア。昼食は?」
声に顔を上げると、クラウスが扉に立っていた。
「この計算を確認したら、いただきます」
「一時間前にも、そう聞いた」
時計を見て驚いた。確かに昼はとうに過ぎている。
彼は私のペンへ一度視線を落としたが、取り上げる代わりに、机の端へ砂時計を置いた。
「どこで区切れる?」
「……この頁の末尾まで。あと少しです」
「では、待とう」
向かいの椅子へ座られると、妙に落ち着かなかった。
私は最後の数字を確かめ、続きの箇所へ栞を挟んだ。
「お待たせしました」
立ち上がった瞬間、目の前がふらついた。
すぐに大きな手が肘を支え、私は椅子へ戻された。
「すみません。座りっぱなしだったので」
「水を頼む。医務室にも声を」
クラウスが廊下の従者へ告げる。
大げさにしないでほしい、と言いかけて、彼の顔を見た。眉を寄せたその目には、不機嫌というより恐れがあった。
「今朝も、あまり食べていないのか」
「パンを半分ほど……」
彼は深く息を吐いた。
「私も気をつけるべきだった。仕事を任せるのと、際限なく増やすのは違う」
「頼まれた以上のことまで始めたのは、私です」
「ならば、二人で直そう」
差し出された水を飲むうちに、眩暈はおさまった。
診に来た医師にも、食事と休息を取るよう言われた。今日は残りを同僚へ引き継ぐことになり、私が躊躇うと、マルタはあっさり書類を受け取った。
「明日は私が午後休みですから、その時はお願いしますね」
助けてもらうことは、迷惑をかけて終わることではない。
私はようやく頷けた。
食事は小さな談話室に用意された。
クラウスが一緒に席についたところで、私は彼の皿にも手がついていないことに気づいた。
「閣下も、まだだったのですか」
「会議が延びた」
「それでは、私にだけお説教はできませんね」
彼は何か言いかけ、諦めたようにパンを取った。
「……その通りだ」
可笑しくなった。
厳しい国境伯にも、返答に困ることがあるらしい。
笑った私を見て、彼の肩からも少し力が抜けた。
「一つ、頼みがある」
「何でしょう」
「都合のつく日は、昼を一緒に食べないか。互いに、席を立つ理由になる」
合理的な提案だった。
それなのに、返事の前に胸が速く打った。
「喜んで。昼食中は、仕事の相談を持ち込まないことにしましょう」
「……それは困ったな」
「お嫌ですか?」
「いや。何を話せばいいか、考えていなかった」
思いがけず正直な答えだった。
私は匙を置いて尋ねた。
「では、好きなお菓子は?」
彼は扉の方へ目をやった。
誰もいないことを確かめるような仕草に、笑いがこみ上げる。
「蜂蜜をかけた林檎の焼き菓子だ」
「覚えておきます」
『北の氷壁』が、ごく真面目な顔で頷いた。
次に会う理由が一つ増えた。そのことが、新しい仕事の予定よりも、少しだけ待ち遠しかった。




