第5話:元婚約者様、業務引継書はお読みになりましたか?
エレノアが去って四日目。
ローガン侯爵家の執務室では、未決裁の書類が机の端まで積み上がっていた。
「商人ギルドから、支払予定の回答を求められています」
「エレノアに任せていたはずだ!」
「そのため、今後のご指示をいただきたいのです」
会計係の声は硬かった。
手元には、金庫の残高を記した帳簿が開かれている。支払うべき金が足りず、どの案を選ぶかという決裁が止まっていた。
「こちらをお読みください」
差し出されたのは、エレノアが夜会の前日まで更新していた業務引継書だった。
以前から増員を願い出ていた彼女は、担当が替わっても仕事が続くよう、手順と期限をまとめていた。
セドリックはそれを「いちいち読む暇があるか」と、棚へ押し込んでいたのだ。
帳票の保管場所。担当者の名前。申請期限。
最後の頁には、収支不足への対応案が三つ並んでいる。
不要な馬車と装飾品の売却。
領主一家の支出削減。
返済計画を提示した上での、新たな融資交渉。
「こんなことをしたら、我が家の面目はどうなる!」
会計係は答えなかった。
エレノアも、何度となく同じ怒声を受けたはずだった。
そこへ、王都の代書人ベネットから通知が届いた。
エレノア名義の追加融資は停止。既存の借入については、契約に定めた説明と返済の協議を求める、とある。
借用証の写しの末尾には、ローガン侯爵の署名があった。
「父上に言えばいい。あいつも父上には逆らえん」
だが領地にいた侯爵から届いた返事は、息子の期待とは違っていた。
借金の処理は会計係と進め、ハミルトン家へは謝罪せよ。家を支えてきた相手を街道に置き去りにするとは何事か、と。
侯爵もまた、エレノアの働きに甘えていた一人だった。息子に任せきりにした管理の実態を、今になって調べ始めたところである。
セドリックは手紙を机に叩きつけた。
謝れば、自分が間違っていたことになる。それだけは認めたくなかった。
「リリアン。手伝うと言っただろう。この書式を埋めろ」
ソファーの端に座っていたリリアンが、びくりと肩を揺らした。
「私には、そういう勉強は……」
「茶を注ぐしかできないのか!」
「それでいいとおっしゃったのは、セドリック様です!」
怒鳴り返した彼女は、すぐに唇を噛んだ。
綺麗な服で隣に座れば褒めてもらえた。それがいつの間にか、できない仕事を押しつけられる立場へ変わっていた。
エレノアの説明を遮った時と、彼は同じ顔をしている。
「……今日は帰ります」
「勝手にしろ!」
扉が閉まる。
セドリックは椅子へ座り、引継書を開き直した。
慣れた字で、赤字の注意書きがある。
『工事費を別用途へ振り替える場合は、王宮の承認が必要です。未承認の支出は行わないでください』
彼の指が止まった。
先月、夜会と贈り物の費用が足りず、仮払いとして動かした金があった。エレノアに知られないよう、別の帳簿につけさせた金だ。
後で戻せばよいと思っていた。
だが、穴を埋めてくれるはずの彼女はもういない。
「……連れ戻せば、済むことだ」
口に出すと、まだ間に合う気がした。
けれど呼び鈴を鳴らしても、すぐに扉を開ける人はいなかった。
かつてその音のたびに仕事を止め、彼の用事を優先していた人は、もう別の場所で自分の名前を署名していた。




