第3話:国境伯が差し出したのは、帰り道ではなく椅子でした
クラウス・フォン・ゼルク国境伯。
ガルシア帝国の北境を守る軍司令官であり、この関所を含むゼルク領の領主。その名は、ルディ王国にも聞こえていた。
戦場での厳しさから、『北の氷壁』と呼ばれているという。
その人が今、詰所の食卓で、私の前へパンの籠を押していた。
「足りなければ言ってくれ」
「ありがとうございます。あの、まだ旅券の審査が」
「係が確認している。私と話したからといって、省略はできん」
もっともな返答に、かえって安心した。
勧められたスープを飲む。侍女の代わりにお茶を注いでくれたのは、食堂を預かる年配の女性だった。扉は開いていて、廊下では役人たちが行き交っている。
「昨夜、何があった。話せる範囲でいい」
私は婚約者に置き去りにされたこと、宿場から郵便馬車に乗ったことを話した。
クラウスは途中で口を挟まなかった。ただ、置き去りにされた場所を告げた時だけ、眉間に深い皺を寄せた。
「そこに一晩いろと?」
「頭を冷やせ、とのことでしたので。十分に冷えましたから、戻らないことにしたんです」
カップを置く彼の手が止まる。
それから口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「そうか。無事に着けてよかった」
大胆だとも、愚かだとも言わなかった。
その一言が、不意に胸へ落ちてきた。
食後、通行許可を持ってきたのは関税係の責任者だった。
先ほどの誤分類は、最近変わった帳票の転記欄に原因があったらしい。担当者が替わるたび、同じ確認を繰り返していたという。
「差し支えなければ、王国側での扱いを教えていただけませんか」
私は許可を得て、照合に必要な箇所を抜き出した見本を作った。責任者が実際の書類と照らし合わせ、使えるところに印をつけていく。
急場の案だったが、二人で確認すると、見落としていた例外も一つ見つかった。
「助かります。午後の引き継ぎで試してみます」
礼を言われて、思わず笑みがこぼれた。
訂正しても怒鳴られない。確認を頼んでも、面倒だと突き返されない。それだけで仕事は、こんなに進むのだ。
責任者が退室した後、クラウスが尋ねた。
「この先の予定は?」
「国境都市で宿を取り、帳簿の仕事を探すつもりです。当座のお金はあります」
「ならば、私のところも候補に入れてくれないか」
彼は机へ、領内の事務官募集の写しを置いた。
先代の急逝に伴う組織の立て直しで、通商に詳しい人手が足りないという。
「今日ここへ来たのも、関所の滞りを確かめるためだ。経歴を確認した上で、まずは期限を決めて仕事を頼みたい」
「他国の者を、雇われるのですか」
「条約と帳簿を読める者を募集している。国籍だけで断る理由はない。ただし、扱える書類は身元の確認に応じて決める」
渡された紙には、給与の目安と勤務時間、宿舎の条件まで書かれていた。
私は思わず、何度も読み返した。
「返事は、今すぐ必要でしょうか」
「いや。今日は休め。城の来客用の部屋を使ってもいいし、市内の宿を希望するなら紹介する」
クラウスはそこで、開いた扉から入る風に気づいたらしい。自分の外套を外すと、私へ差し出した。
「これを。肩が冷えるだろう」
受け取った布は厚く、まだ温かかった。
昨夜から気を張っていた指先が、その温もりにほどけていく。
「……城のお部屋を、お借りしてもよろしいですか」
「もちろんだ」
「仕事のお話も、休んだ後で詳しく伺いたいです」
彼は静かに頷いた。
その表情が、部下に命じる時より少しだけ柔らかいことに気づき、私は外套の襟へ目を落とした。
誰かの馬車へ戻るために、謝る必要はなかった。
差し出された椅子へ、自分の意思で座っていい。
その当たり前を、私は温かな外套を抱きしめながら、ゆっくり覚え始めていた。




