↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「一晩頭を冷やせ」と夜道に降ろされましたが、二度と拾われない場所へ行きますね  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/15

第3話:国境伯が差し出したのは、帰り道ではなく椅子でした

 クラウス・フォン・ゼルク国境伯。

 ガルシア帝国の北境を守る軍司令官であり、この関所を含むゼルク領の領主。その名は、ルディ王国にも聞こえていた。

 戦場での厳しさから、『北の氷壁』と呼ばれているという。


 その人が今、詰所の食卓で、私の前へパンの籠を押していた。


「足りなければ言ってくれ」

「ありがとうございます。あの、まだ旅券の審査が」

「係が確認している。私と話したからといって、省略はできん」


 もっともな返答に、かえって安心した。

 勧められたスープを飲む。侍女の代わりにお茶を注いでくれたのは、食堂を預かる年配の女性だった。扉は開いていて、廊下では役人たちが行き交っている。


「昨夜、何があった。話せる範囲でいい」


 私は婚約者に置き去りにされたこと、宿場から郵便馬車に乗ったことを話した。

 クラウスは途中で口を挟まなかった。ただ、置き去りにされた場所を告げた時だけ、眉間に深い皺を寄せた。


「そこに一晩いろと?」

「頭を冷やせ、とのことでしたので。十分に冷えましたから、戻らないことにしたんです」


 カップを置く彼の手が止まる。

 それから口元が、ほんのわずかに緩んだ。


「そうか。無事に着けてよかった」


 大胆だとも、愚かだとも言わなかった。

 その一言が、不意に胸へ落ちてきた。


 食後、通行許可を持ってきたのは関税係の責任者だった。

 先ほどの誤分類は、最近変わった帳票の転記欄に原因があったらしい。担当者が替わるたび、同じ確認を繰り返していたという。


「差し支えなければ、王国側での扱いを教えていただけませんか」


 私は許可を得て、照合に必要な箇所を抜き出した見本を作った。責任者が実際の書類と照らし合わせ、使えるところに印をつけていく。

 急場の案だったが、二人で確認すると、見落としていた例外も一つ見つかった。


「助かります。午後の引き継ぎで試してみます」


 礼を言われて、思わず笑みがこぼれた。

 訂正しても怒鳴られない。確認を頼んでも、面倒だと突き返されない。それだけで仕事は、こんなに進むのだ。


 責任者が退室した後、クラウスが尋ねた。


「この先の予定は?」

「国境都市で宿を取り、帳簿の仕事を探すつもりです。当座のお金はあります」

「ならば、私のところも候補に入れてくれないか」


 彼は机へ、領内の事務官募集の写しを置いた。

 先代の急逝に伴う組織の立て直しで、通商に詳しい人手が足りないという。


「今日ここへ来たのも、関所の滞りを確かめるためだ。経歴を確認した上で、まずは期限を決めて仕事を頼みたい」

「他国の者を、雇われるのですか」

「条約と帳簿を読める者を募集している。国籍だけで断る理由はない。ただし、扱える書類は身元の確認に応じて決める」


 渡された紙には、給与の目安と勤務時間、宿舎の条件まで書かれていた。

 私は思わず、何度も読み返した。


「返事は、今すぐ必要でしょうか」

「いや。今日は休め。城の来客用の部屋を使ってもいいし、市内の宿を希望するなら紹介する」


 クラウスはそこで、開いた扉から入る風に気づいたらしい。自分の外套を外すと、私へ差し出した。


「これを。肩が冷えるだろう」


 受け取った布は厚く、まだ温かかった。

 昨夜から気を張っていた指先が、その温もりにほどけていく。


「……城のお部屋を、お借りしてもよろしいですか」

「もちろんだ」

「仕事のお話も、休んだ後で詳しく伺いたいです」


 彼は静かに頷いた。

 その表情が、部下に命じる時より少しだけ柔らかいことに気づき、私は外套の襟へ目を落とした。


 誰かの馬車へ戻るために、謝る必要はなかった。

 差し出された椅子へ、自分の意思で座っていい。

 その当たり前を、私は温かな外套を抱きしめながら、ゆっくり覚え始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。