第2話:迎えの馬車に、婚約指輪が返ってきた
翌朝、午前七時。
昨夜の道端に馬車を止めたセドリックは、当然あるはずの姿がないことに眉をひそめた。
「エレノア! 迎えに来てやったぞ!」
返事はない。茂みを探しても、人の気配はなかった。
足元に目をやると、泥に残った小さな靴跡が宿場の方へ続いていた。
「……勝手に歩いていったのか」
自分が置き去りにしたことは棚に上げ、セドリックは御者に宿場へ向かうよう命じた。
宿場の郵便係は紋章を見ると、ちょうど王都へ発送するところだった小箱を差し出した。
「ローガン侯爵家の方ですね。ご本人なら、受領簿に署名をお願いします」
箱の中には、布に包まれたサファイアの指輪があった。
『指輪をお返しします。今後の連絡は、王都の代書人ベネット氏を通してください。エレノア・ハミルトン』
「どういうことだ。あいつはどこへ行った!」
「お客様の行き先は、お答えしておりません」
食堂の女将が、郵便係の横へ立った。
セドリックが爵位を持ち出しても、彼女は動かなかった。
「お連れの方を捜されるなら、ご実家へお尋ねください。昨夜、そちらへのお便りもお預かりしましたから」
王都へ戻り、ハミルトン伯爵家の屋敷を訪ねた頃には、宿場からの朝の郵便が先に着いていた。
出迎えた老執事は、いつものようには客間へ通さなかった。
「エレノア様はご無事です。ご滞在先は、お伝えいたしかねます」
「婚約者の私に隠すのか!」
「その婚約を解消したいとのご意向です。伯爵様へは至急、お知らせいたしました」
エレノアの両親は、遠方の領地にいた。父は静養中で、娘が侯爵家でどのように扱われているか、十分には知らされていなかった。
セドリックはそれを知っている。だから、両家の正式な話し合いになる前に連れ戻せば済むと思った。
「大げさな。一晩、反省させただけだ」
執事の顔から、最後の愛想が消えた。
「そのお言葉も、伯爵様へそのままお伝えします」
扉が閉まる直前、セドリックは屋敷の奥を覗いた。
あの几帳面な声が、自分を取りなしてくれる気がした。
だが、誰も呼び止めなかった。
同じ朝、私はガルシア帝国の国境検問所にいた。
交代の馬を使って夜通し走った郵便馬車は、開門前に関所へ着いた。同行の夫婦に別れを告げ、私は旅券審査の列に並んだ。
隣の貨物窓口では、薬草を積んだ商人と役人が言い争っていた。
「救療院向けの荷だ。指定品の免税証明もある!」
「だが、この控えには一般貨物とある。積み荷を全部下ろして確認する」
商人の掲げた証明書に、見覚えのある印があった。
国境沿いの救療院への物資輸送は、侯爵領でも扱った仕事だ。両国の取り決めが変わった時、私は申請書を作り直している。
「失礼します。その証明書の裏面を、確認していただけますか」
二人が振り向いた。
私は窓口横に掲示された新しい通達を指した。
「この印があれば、新様式の受領証が裏に綴じられているはずです。こちらの控えだけ、旧様式の分類が残っているのではありませんか」
役人は一瞬むっとしたが、書類を裏返すと黙った。
隣の係へ確認を求め、二人で通達を読み直す。
「……ご指摘の通りです。証明の照合後に通せます。荷下ろしはお待ちください」
商人が大きく息を吐いた。
私は会釈を返し、自分の列に戻る。全員の足止めが解けたわけではないが、少なくとも薬草は無駄に濡れずに済みそうだった。
「その改定を、どこで学んだ?」
不意に、低い声がした。
振り向くと、黒い外套の青年が立っていた。灰銀の目が、窓口の書類から私へ移る。
兵士たちが姿勢を正した。
「ゼルク国境伯閣下」
私は背筋を伸ばした。
けれど、その前に、お腹が小さく鳴った。
青年の目が、私の泥のついた靴と、冷えた指先へ下りる。
「……話は、朝食の後にしよう」
責める声ではなかった。
そう気づいてから、私はようやく、肩の力を抜くことができた。




