第13話:「一晩頭を冷やせ」の答えを差し上げます
セドリックは、一瞬だけ言葉を失った。
だがすぐに、私の返事を聞かなかったことにした。
「意地を張るな。指輪も持ってきてやったぞ」
小箱が開く。
布の上には、返した時と同じサファイアが載っていた。
綺麗な石だった。けれど、もう手を伸ばしたいとは思わなかった。
「受け取りません。婚約は解消されました。通知も、お読みになったはずです」
「紙切れ一枚の話だろう! 父上も困っている。お前が戻れば――」
「戻りません」
今度は、遮った。
説明が足りなかったから置き去りにされたのではない。この人が聞かなかったのだと、今なら分かる。
「領地の仕事は、王宮の管理人と担当の方へ相談なさってください。私への返済については、ベネットさんへ。どちらも、連絡先をお知らせしています」
セドリックの顔が赤くなった。
「他人行儀なことを言うな! お前が書類を書いて、融資を戻せばいいだけだろう。そうすれば、私も許してやると言っているんだ!」
私は、最後まで聞いた。
自分を助けてほしいという話の中に、どうして私を許すという言葉が入るのか。以前なら、その矛盾を飲み込んでいた。
「セドリック様。あの夜、あなたは『一晩頭を冷やせ』とおっしゃいましたね」
「だから、少し反省しろという意味で――」
「私は、あの夜まで、いずれ分かってくださると思っていました。書類を整えれば。借金を立て替えれば。もっと上手く説明すれば、対等に話せるようになると」
彼は焦れたように足を鳴らした。
私は言葉を急がなかった。
「でも、寒いと言っても、危ないと言っても、あなたは馬車を出しました」
車輪の音を思い出す。
それでも今、膝は震えていなかった。
「十分に冷えました。あなたへの情も、私が何とかしなくてはという思いも。これ以上、あなたのために自分を後回しにはしません」
「たかが一晩で、何を大げさな!」
その言葉を聞いて、残っていた迷いが静かに消えた。
あの夜が危険だったと、この人は今でも認めない。
「その一晩を、私に過ごせと言ったのはあなたです」
セドリックが口を開き、閉じる。
「……私の方へ戻りたくないと、本気で言っているのか」
「はい」
初めて、彼の顔に恐れが浮かんだ。
私の返事が変わらないと、ようやく分かったのかもしれない。
だが次に出てきたのは謝罪ではなく、慣れた侮辱だった。
「お前のような可愛げのない女を、他の誰が拾うというんだ!」
「彼女は、拾い主を探していたのではない」
クラウスの声が、私のすぐ隣から響いた。
剣に手をかけることも、怒鳴ることもしない。ただ、セドリックの視線を正面から受け止めていた。
「ゼルク国境伯……」
「私が彼女を引き留めていると思うなら、見当違いだ。今、君は本人の意思を聞いた」
セドリックの目が、私たちの間を行き来した。
「そいつが、お前を戻さないのか。家柄に目が眩んだのか!」
私は首を横に振った。
「クラウス様と出会う前に、あなたのところへは戻らないと決めました」
誰かが現れたから、逃げてよかったのではない。
私一人でも、あの夜を拒んでよかったのだ。
「そして今は、ここで暮らしたいと思っています。この方と、一緒に」
隣の手に、自分から触れた。
クラウスが、そっと握り返してくれる。
「お話は終わりです。今後は、代理人を通してください」
私は一歩、後ろへ下がった。
もう、彼の返事を待つ必要はなかった。
迎えの馬車がどこへ向かおうと、私の行き先は変わらない。
私が選んだ手は、今、確かにここにあった。




