第二章 林勃の橋――赤き悪魔と地獄狼、絶体絶命
聖騎士、初めての強敵と対峙。橋を渡るために、己を超えろ。
「はぁ……疲れた」
聖騎士は無骨魔蝠の身体から聖剣を抜き、刃の血を振り払った。一本の枯れ木にこれだけの魔物が潜んでいたとは、想定外だった。
とはいえ、魔力は多少戻った。左腕の臂甲に刻まれた銘文が、蒼く淡い光を帯びる。
【幽影疾避・超】
一瞬で、彼は崖の縁へと移動していた。
「よくもまあ、これだけの穴を掘ったものだ」
白い鎧の内側から汗が滲む。眼下には、先ほどまで自分がいた天坑が広がっている。
聖剣を納め、彼はひと息ついた。数千匹の魔物を倒した。慎重に動けば、勝てない相手ではない。
(「まずは『アケローン』の橋だ。林勃を出る唯一の通路。サタンが何かを仕込んでいる可能性が高い」)
nobile castello……それは後回しでいい。そう判断した。
(約一時間前)
「サタン、我を呼んだか」
悪魔王宮。アンドラスは玉座の前、紫の長絨毯に片膝をつき、サタンの言葉を待っていた。
「『アケローン』の橋を守れ。天から降りた聖騎士を、そこで食い止めよ」
サタンは身をわずかに乗り出し、左手を肘掛けに預けて、その冷たい美貌を支えた。
「お前の実力なら、数度は彼を退けられる」軽やかな口調だった。「ただし、相手はかつて地上の神々と単独で渡り合った男だ。危うくなれば、私が陰から手を貸す」
「そんな相手、会うたびに殺してきた」アンドラスは眉をひそめて顔を上げ、魔王を見据えた。「サタン王。もし我が橋を守り切れねば、御身の手で羽根を奪い、極刑に処せよ」
「その誓い、己の胸に刻んでおけ」
サタンは横目で彼女を見つめ、右手を一振りした。アンドラスは振り返り、王宮の門へ歩き出す。
「待て」
「何だ」
「我が授けた【黒鎖】、決して解くな」
「承知した」
彼女は表情を変えず、再び背を向けた。
(現在)
地獄には時間の概念がない。聖騎士は自分がどれほど歩いたかも、正確には把握していなかった。【瞭望の眼】を使いながら、地形を頭に刻んでいく。「審判の日」以降、地獄は大きく変わった。死と陰府の鍵を握る神でさえ、今や地獄のすべてを掌握してはいない。
「……暑い」
聖騎士は鎧に滲む汗を拭いながら、「アケローン」の橋へ向かう。橋が視界に入った瞬間、警戒心が走った。
(「まずは様子見だ」)
巨岩の陰に身を寄せ、橋上の状況を窺う。数十の重装魔兵。そして吊橋の中央に立つ、一際目立つ存在——アンドラス。
さらに詳しく観察する。
アンドラスは、鈍い漆黒に金縁の施された魔鎧を纏っていた。両脚には幾重もの呪紋付きの暗紫色の鉄鎖が巻き付き、鎖の下には純黒のオーバーニーソックスが覗く。冷たい鎖環は足首から太腿の内側までを這い、複数の索が腿肉に食い込むように絡みついていた。
さらに頭から足まで、冷静に観察を続ける。朱砂色の肌は冷たい赤光を放ち、刃のような魔角が眉骨から後方へ斜めに突き出ている。頬には幾筋もの長い刀傷。その上に、高く引き締まった力強い体格。生来の野蛮な特徴があまりに強烈でなければ、この姿だけでも十分に颯爽とした英姿と言えた。
(「前に見た姿とは違う」)
「ひとまず探る」
聖騎士は背の聖剣を抜き、巨岩の陰から出た。それを見た魔兵の一人が弓を構え、矢を数本出現させる。
【箭変!】
矢は即座に橙青色の炎を帯び、放たれた。
「ヒュッ――」
【聖斥】
黄砂が舞う。アンドラスは遠方の物音に気づき、肩に担いだ鎖鎌を下ろした。左手で口笛を吹くと、一匹の黒き地獄狼が橋の陰から飛び出し、聖騎士に襲いかかった。
【幽影疾避】
聖騎士は辛うじて煙の中から飛来する地獄狼をかわした。しかし速度が速すぎた。右肩の肩甲が狼の爪で裂かれる。右腕の痛みを堪え、左腕の銘文が瞬時に輝く。
【魔愈】
【聖愈】とは異なるこのスキルは、大量の魔力を消費して自身を治療する代わりに、他スキル使用時の制限を大幅に軽減する。今の彼に複数スキルの同時使用は身体が持たない。だからこそ【魔愈】を開発し、治療と他のスキルを並行して使えるようにした。
黒き地獄狼は聖騎士の魂の在処を嗅ぎ取り、背中の筋肉に青筋を浮かべる。黄砂が徐々に晴れ、聖騎士は地獄狼と対峙した。
「今、スキルを得るだけの経験値はない」
【聖光裁決・聚】
技が多くても、火力が足りなければ意味がない。聖騎士はほぼ全ての魔力を聖剣に集中させ、この一撃で決めるつもりだった。初見の相手には、その実力を測る必要がある。
アンドラスは橋の上に立ち尽くしたまま、聖騎士と己の座騎の戦いを横目で見ていた。刀を握る右手の力は緩めていない。
(「今だ」)
【幽影疾避】
聖騎士は残りの魔力を全て使い、黒き地獄狼の背後に瞬間移動した。両手で聖剣を振りかざす。
【聖光裁決】
地獄狼の反応は速かった。聖騎士が振り下ろす一瞬のうちに跳び退いた。だが、その一撃は左後肢を切断していた。
(「魔力切れだ」)
聖騎士は切り落とされた狼の脚を見下ろし、即座に聖剣を胸の前で構え直した。黒き地獄狼は苦痛の咆哮を上げると、身を翻して左爪を振るい、聖騎士の聖剣を粉々に叩き砕いた。
(「死んだな」)
さらに右爪が左手を切断し、続けて喉を噛み締められた。狼が彼を押し倒し、左爪で身体を押さえる。
「ぐあ、ああああっ――」
そのまま聖騎士は、狼に首を引きちぎられた。脊柱ごと。
【回朔】
「……う」
聖騎士は青き大地の上で身を起こした。一度死を経験し、次に取るべき行動は明確だった。
(「痛覚までは消していないのか」)
もともと魔物を相手にするだけで身体(鎧)は痛む。先ほど地獄狼に引き裂かれた感覚は、長年戦場を歩いてきた彼でも慣れないものだった。どうやら神は、彼の身体を以前よりも敏感にしている。場合によっては、人間の数倍以上かもしれない。
「……厄介だ」
彼は無事な左手を撫でながら、しばらく動かなかった。
(「賢哲聖堡(nobile castello)か。あの英霊たちに頼るべきだろう」)
「……行くしかない」
聖騎士は聖剣を拾い上げ、前世の記憶を頼りに、林勃の地の奥深くへ歩き出した。
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(賢哲聖堡)
「諸君、天の来訪者が我々に会いに来る」
素朴なローマ式白トーガを纏った男が、手にしていた『アエネーイス』を置いた。銀灰と霜白の混ざる長髪は首筋まで届き、その引き締まった長身からは淡い柔光が漂っている。
「聖なる力が此方へ近づいている。天国の聖騎士であろう。惜しむらくは、我は生ける身のまま聖境に足を踏み入れることは叶わぬ。ただここで来客を静かに待つとしよう」
豆知識です。
魔力とは、魔法を使用する際に消費するもののことです。(知らない人はいないですよね?)ですが、スキルの消費は主に魔力が担っています。魔力と経験値は、本質的に異なるものです。聖騎士は“レベルアップ”のために、魔物などの生命を倒して得た経験値しか消費することができません。同時に、スキルを使用するごとに、一定の経験値を消費する仕組みになっています。ただし、スキルの消費は主に魔力が担います。
「そんな面倒なこと、これも試練のうちなのか?」
「後々、真の魔力の使い方を理解すれば、自ずとその理が分かるだろう」




