9
「ほら兄上!今の生活なんて無茶苦茶なんですよ。僕も父上もずっと心配してるのに。周りの人達からだってベアトリーチェ様を怖がって遠巻きにされて、孤立無援にまで追い込まれているんですよ!」
確かに、あんなのに関わりたくはない。
でも一人を生贄みたいに放りこんで自分たちは知らんぷりは、どうかと思う。
少なくともレイスリーネは好きではない。
ネルの言葉に、公爵も重々しく頷いた。
その目には憤怒が宿っている。
「何度も婚約解消を願い出ているのに毎度うやむやにされている。王太子殿下はこれでは公爵家の信頼を失うと進言してくださっているし、ハイドラのことも気にかけてくださっていた。今度こそは解消をさせる。大事な息子も家名も、ここまで侮辱されては黙っているわけにはいかない」
公爵が低く唸るように声を絞って言い切った。
かなり腹に据えかねていたらしい。
というか解消を何度も願い出ているあたり、本当に開放してほしい切実さがよくわかる。
その様子にレイスリーネは、うむと頷いた。
「じゃあやっぱり私と婚約しましょう」
「レイスリーネェェ!」
とうとうタッシェが叫ぶように名前を呼んだ。
ハイドラをまっすぐ見やれば、心底驚いているのかぽかんと口を開けている。
「何を言ってるんだお前は!」
とうとう体ごとレイスリーネに向き合ったタッシェに、清々しく笑ってみせる。
「だって一度婚約破棄してもベアトリーチェ様の手綱が取れないって、ほとぼり冷めたら再婚約を言われそうじゃないですか」
「……確かにありえる」
公爵が苦虫を嚙み潰したような顔で唸った。
なんなら舌打ちまでしそうだ。
ハイドラにいたっては、真っ青になっている。
膝の上の手が白くなるまで握りしめられていた。
(酷い生活強いられたあげく、あんな目にあわせた相手とまた再婚約なんて悪夢よね)
誰だって嫌だ。
なのでレイスリーネは打開策を口にした。
「でもうちと婚約したら何も言えないですよ。不可侵の森を抑え込んでる王国の盾。絶対に機嫌を損ねたくないでしょうからね」
ついでに言えば王都の騎士と辺境の騎士では実力がまるで違う。
つねに実践で魔物を倒している辺境の騎士に、魔物も倒すけれど、どちらかと言えば治安を守る責務の騎士が勝てるわけがない。
レイスリーネの言い分に、タッシェが「それはそうだが」と渋い顔をした。
腕を組んで頭が痛いというように、嘆息する。
「だから名目上は婚約だけど、ハイドラ様を王都から逃がすのと療養目的で辺境に行くんです。半年後には学園で嫌でも王都に戻りますし」
「待ってください!あなたは次期辺境伯ですよ。婚約相手なんていくらでも候補がいると思います。なのにそんな理由で私を選んではいけません」
そんな大きな声出たんだと思うほどの声量と勢いでハイドラがまくし立てた。
体も前のめりになり、どう見ても尋常でない焦り具合だ。
けれどレイスリーネは自信満々に、そして快活に笑った。
そんな表情を浮かべると、外見との剥離で目を疑いそうだ。
その外見に似合うのは淡雪のように儚い笑みだろう。
現実は声まで上げて笑いそうなほど雄々しかった。
「大丈夫です!私ハイドラ様の目が気に入りましたから!」
「目?」
「お月様みたいって言ったじゃないですか。辺境でキラキラに磨き上げますからね!」
これは決定事項だとばかりにズバッと言い切る。
赤いガーネット色の瞳でまっすぐにハイドラを見ると、頬がじわじわと赤くなっていた。
「そ、それは……」
そのあとが続かないらしく、パクパクと口を動かすばかりだ。
頬はどんどん赤くなっていく。
残りの三人もポカンとレイスリーネを見て口を開けていた。
むふーっと満足気なレイスリーネに、最初に呻くように声を上げたのはタッシェだった。
心底すまなそうに公爵に頭を下げる。
「申し訳ありませんバレンチェイド公爵。娘はこうと決めたら説得するのに時間がかかるんです……」
「……いや、こちらとしては願ってもない話だ」
「父上、受けるおつもりですか!?」
あまりの展開に、ハイドラが今度は悲鳴のような声を上げる。
情緒が乱気流にも程があるように見えた。
「ご令嬢の婚約をこんなことで利用しては」
「お前をこれ以上王家に搾取させないためだ。亡き妻にも申し訳が立たないし、私としてはあんな屈辱を味わされた婚約が無くなったことに安堵している。レイスリーネ嬢の申し出は今のお前にとって最善のものだ」
「父上……わかりました」
何か言いたそうに口を開いたけれど、ネルも何度も頷くのを見て結局ハイドラは静かに了承した。
その顔には申し訳ないという感情でいっぱいだ。
部屋のなかに重い空気が静かに漂った。
「じゃあ仮の婿殿として、さっそく領地に行きましょうか」
「レイスリーネ!お前はもう少し空気を読みなさい!」
「空気は吸うものですよお父様」
「そうだけどそうじゃない……」
沈痛な雰囲気をぶった切ったレイスリーネに、とうとう父親が疲れたように肩を落とした。
レイスリーネはなんか疲れてるな、くらいの感想しかない。
辺境伯家のやりとりに、公爵家はどう反応したものかという様子だったけれど、唐突にネルが右手を上げた。
「僕は賛成です。すぐに向かった方がいいと思います。じゃないと呼び出されて簡単な謝罪で無かったことにされると思います」
「それは、そうですが」
「兄上、どうせ半年後には学園のために王都に戻るんだし、そのときどうしても嫌だったらレイスリーネ嬢に解消を願い出たらいい。お互い気に入ればそのまま婿入りだってかまわないよ。いざってときはこの家には僕がいる。婚約者だっているしね」
茶目っ気のある笑顔でネルがハイドラをまっすぐに見つめた。
弟のその言葉に、ハイドラの月色の瞳が微かに揺れる。
「でもそうなると、お前に負担が」
「大丈夫だよ。兄上の力になりたくて、家庭教師の先生に追加で授業してもらってたから。学園に行ったら兄上の時間が出来るように補佐する気だったんだ」
「そんなことしてたのか」
ネルの言葉に、ハイドラが自分のふがいなさだとか、嬉しさだとかを混ぜ込んだ笑みを向けた。
その顔は幼い子供が泣きそうなものに似ている。
ネルがハイドラから目線を動かし、レイスリーネを見据えた。
その眼差しはネルの性格を表しているのか、真摯なものだ。
「そういうことですのでレイスリーネ嬢。兄上のことを、よろしくお願いします」
「まかされました」
「はは、レイスリーネ嬢はなんだか妖精のようなのに格好いいですね」
鷹揚に頷いたレイスリーネへのネルの言葉に、ギクリと辺境伯家二人の体が一瞬強張ったけれど、タッシェが慌てるように公爵を見やった。
「では急いで移動しましょう。移動玉をお願いできますか?」
タッシェの言葉に頷いて、全員公爵の執務室へと向かった。
移動玉は魔道具だ。
当主だけが使えるもので、基本的には有事の際に使う。
魔力を込めて人が行き来できるものだけれど、移動玉は王家から渡された家のみしか所有していない。
そしてどこからどこへ、何人が移動したかは王家に記録が残るので反乱なんかには使えない代物だ。
執務室は調度品がけた違いに高価そうなものだったけれど、置いてある机や本棚などの配置的なものはどこも一緒だなとレイスリーネは思う。
公爵が厳重な棚から机に置いた、手のひらいっぱいに載る大きな丸い石が移動玉だった。
レイスリーネ達の荷物は使用人があとから持ち帰るよう、公爵家から使いを出してもらった。
ハイドラの荷物も、まとめたあとで明日にでも届けることになっている。
「では準備を」
公爵の言葉に、タッシェがレイスリーネの手を握った。
移動玉は、移動する人間が触れ合っていないといけない。
タッシェの手を握ったあと、レイスリーネはくるりとハイドラへ振り返りまっすぐ手を伸ばした。
パールピンクの髪がその動きにふわりと揺れる。
「ハイドラ様、行きましょう!」
一瞬ハイドラは躊躇を見せたけれど、口を引き結んでレイスリーネの白い手を取った。
公爵が移動玉に触れて魔力を注ぐと、淡く三人の体が光りだす。
「兄上、また半年後に」
「しっかり療養しなさい」
「はい……ありがとうございます」
ハイドラが静かに頭を下げると、公爵がタッシェへと小さく頭を下げた。
「息子をよろしく頼む」
「丁重にお預かりいたします」
頷くタッシェに、体が淡く透けだした。
体がすべて消えれば移動完了だ。
「ハイドラ様、チュクシオン領はいいところだから、楽しみにしててくださいね」
「はい」
レイスリーネの言葉に、ハイドラは戸惑いを伺わせたあとにほんの少しだけ口元を緩めて笑った。
それは、王宮や応接室で見たのよりは強張っていない。
(あ、さっきより笑った)
ほんの少しだけれど、完全に諦めた笑みではない。
これをキラキラに磨き上げるぞとレイスリーネは、いま一度決意を新たにした。
まだ目は死んでいるからだ。




