10
「ようこそ、我が家へ」
公爵家からチュクシオン邸の執務室へと三人の移動が完了すると、手を繋いだままレイスリーネは元気よくハイドラへと言い切った。
ハイドラが慌てて手を離す。
ついでにタッシェとレイスリーネも手を離すと、改めてハイドラはタッシェへと深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんが、お世話になります」
「そう緊張しなくても大丈夫だ」
「そうですよ。王都みたいにちゃんとしなくても大丈夫です。辺境なんてただの田舎ですから」
レイスリーネの田舎発言にハイドラがどう答えたものかとわずかに眉を下げるのを見て、タッシェがレイスリーネを背後においやった。
「これからの事と妻の紹介もあるから、応接室に行こう。レイスリーネも言っているが、心身を休めるのが第一だ。ゆっくりするといい」
「色々なことしましょうね!」
「レイスリーネ、お父様の言ったことを聞いていたか?」
「聞いてるわ。健康になったらよ」
心外だという顔をすれば、胡乱な目つきを向けられた。
解せぬ。
「くれぐれもハイドラ殿を振り回さないように」
タッシェの言葉に肩をすくめて、レイスリーネはハイドラを見やる。
「私そんな強引じゃないですからね」
頬を膨らませながらハイドラに訴えると「はい」と頷きながらも、ハイドラの顔にはもう充分振り回されているけどなと書かれていたのをレイスリーネは気づかなかった。
タッシェの案内で二人は応接室に向かい、ソファーのひとつへと腰を下ろす。
今はタッシェの妻でありレイスリーネの母親を使用人が呼びに行っている。
一応ハイドラは婚約者という名目で辺境に来ているので、レイスリーネと並んで座っていた。
三人のあいだに沈黙がしばらく続いたとき、バンと勢いよく応接室の扉が開いた。
「あなた、レイスリーネが婚約者を連れて帰ったというのは本当なの!?」
「リルル……」
勢いのままに入ってきたのは、待っていたレイスリーネの母親だった。
レイスリーネとよく似たパールピンクの髪をした妙齢の女性に、タッシェが力なく名前を呼ぶ。
そんなタッシェなど目に入らないというように、リルルはハイドラを視界に入れてロックオンした。
ハイドラはと言えば、突然の闖入者に目を丸くしている。
お月様色の瞳がそれこそ満月のようだった。
「まあまあまあ、よく来てくれたわね!」
キラキラと瞳を輝かせて、リルルがツカツカとヒールを鳴らす。
ハイドラの前まで進もうとしたところでタッシェにソファーへと誘導された。
ハイドラはリルルの勢いに無意識に引いてしまっていた体を、元へと戻す。
リルルはタッシェを軽く睨んでから、仕切り直すようにハイドラへ微笑みかけた。
顔立ちは整っているけれど、レイスリーネほどの儚さはない。
レイスリーネの見た目が突出しているのが、親子全員揃うことで際立った。
「お名前は?」
「名乗り遅れて申し訳ありません。バレンチェイド公爵家の長男、ハイドラと申します」
「あら、公爵家の方なんて。大丈夫なの?レイスリーネが誘拐したんじゃないでしょうね」
当たらずとも遠からずだ。
「気に入ったから連れてきたわ」
「まあ!」
「落ち着け。名目上の婚約者だ」
「名目上!?ちょっとあなた、どういうこと!」
タッシェの言葉に、今度はリルルが声を上げた。
王都からここまでの道のりでも思い出しているのか、ハイドラが思わずといったようにタッシェを気遣うような眼差しを向ける。
がくんがくんと、とうとうタッシェはリルルに腕を掴まれ揺さぶられていた。
「詳しくは後で話すが、ハイドラ殿は療養目的でここに来たんだ」
「まあそうなの?たしかに不健康そうだけれど」
タッシェを揺さぶるのをやめて目線を自分へ向けたリルルに、ハイドラはわずかに苦笑を浮かべた。
「お恥ずかしいかぎりです」
「大丈夫、私がしっかり面倒みるわ」
「ハイドラ様。この子に合わせなくていいですからね。レイスリーネはこんな可憐な外見しているけれど、中身はとんだわんぱく小僧なんだから」
「わんぱく……」
リルルの言葉にハイドラがはじめて聞いた単語だと言わんばかりの顔で繰り返す。
タッシェが「否定できない」とリルルの言葉に肩を落としたのが真実味を帯びている。
「とりあえず今日から客間を使ってもらおう。着替えは明日届けてもらえるから、今日だけ私のものを使ってくれ」
「何から何まで、ありがとうございます」
「いや、自分の家のようにくつろいでくれてかまわない。今日はもう休むといい」
「はい」
頭を下げたハイドラに気にするなというように笑みを向けると、タッシェはレイスリーネにも視線を向けた。
「お前ももう着替えなさい」
「そうするわ」
促されて立ち上がる。
社交デビュー用に準備したドレスなどは、あれだけ手間がかかったにも関わらずお披露目したのは一時間も満たない。
少し勿体なかったかな、とドレスのスカートを手のひらで一度撫でてから、メイドと一緒に入浴へと向かった。
入浴中、考えたのはハイドラのことだ。
うーんとその姿を脳裏に思い出す。
「隈が酷かったし、慣れない場所だからなあ。眠れるかな?」
湯舟に浸かり、ぶくぶくと水面に泡を作りながら眉を寄せる。
あんなことがあった後だ。
ストレスは最高潮のはずだし、慣れない場所で気も休まらないかもしれない。
そこまで考えて、レイスリーネは「よし決めた」と勢いよく湯舟から立ち上がった。
そうして現在、客間の扉前だ。
トントンとノックすれば「はい」と声がして、扉が開けられる。
そこには父親のものだろう、ブカブカのシャツを着た湯上りのハイドラがいた。
改めて並ぶと、結構長身だとわかる。
レイスリーネがいることに、すっかり前髪を下ろしてしまった顔で驚いている。
残念ながら瞳はまた見えない。
そして、ハッと我に返ったようにハイドラが口を開きかけるけれど、それをさえぎるようにレイスリーネはズカズカと室内へ入った。
「こんな時間に、え、あの!」
「お邪魔します」
ワゴンを押して、テーブルの横へとつける。
部屋に入ってしまえばこっちのものだった。
「ハーブティー持って来たんです」
ハイドラをソファーへと急かすように促す。
期待の目で見ると、ハイドラは戸惑いを見せた。
けれどレイスリーネの視線の圧に負けてソファーへと腰を下ろす。
それしか選択肢はなかった。
お互い向かい合って、温かいハーブティーを口にする。
ほんのり柑橘系の味がする、柔らかい香りだ。
こくりと一口飲んだハイドラが、少しリラックスしたように吐息をもらした。
「私が自分で淹れようとしたら、お母様からいちいち文句言われて」
「文句、ですか?」
ハイドラが不思議そうにするけれど、レイスリーネは先程のリルルとの押し問答を思い出して、鼻に皺を寄せた。
「お母様の趣味だから細かいんです。多少味が濃かったり薄かったりしてもいいじゃないと言ったら、私はいいだろうけどハイドラ様が可哀想だと言われてしまって。失礼ですよね」
膨れて唇を尖らせてしまう。
何もあんなに口うるさくしなくてもいいではないか。
「ふ、ふふ」
本当に小さく、ハイドラが笑った。
今の話の何が面白かったのだろうとか、はじめてちゃんと笑ったとか、そんなことを思いながらハイドラを見ていると、彼の喉がひくりと震えた。
「ッ」
歯を食いしばるように俯いて、右手で顔を覆う。
左手は自分の膝を、筋が浮くほどの力で掴んでいた。
「ハイドラ様……」
「すみません」
絞り出すような声は、泣いているように聞こえた。
「ずっと張りつめていて、こんなに力が抜けたのは数年ぶりなものですから。情けない」
最後の言葉は、自分を不甲斐ないと責めているのだろう。
悔しそうに歪んでいた。
レイスリーネは思わず立ち上がると、ハイドラの前に膝をついてその左手を右手で包んだ。
そして左手でその頭をそっと撫でる。
「レイスリーネ嬢!?」
慌てた声を上げるハイドラだけれど、レイスリーネは座ったままの銀色の頭を右手で気にせず撫でた。
指通りが悪いことに機嫌が下がる。
「ここにあんな奴らいない」
ハッキリと言い切ると、ハイドラの喉がヒュッと鳴った。
不敬にもほどがあるけれど、ここには二人しかいないから許してくれと軽い気持ちで誰にともなく一応謝っておく。
「もう大丈夫。ゆっくりして、たくさん休んで、楽しい事いっぱいしよう。来年の春まで、時間はたっぷりあるから」
「……ええ」
上ずった声に、きっと右手の下では泣いているのだろうなと思った。
(きっと泣いてるハイドラ様の目も綺麗なんだろうけど、見れないのが残念)
少し不埒な考えだけれど、そんな事を思った。
すぐに笑ってる目の方がやっぱり見たいなと思いなおしたけれど。
「私のことはレイスリーネって呼び捨てでいいですよ」
頭を撫でたまま、囁くように言った。
「しかし」
「仮にも婚約者になるんだし、その第一歩です」
勇ましく言うと、少しハイドラの肩が揺れた。
笑っているのかもしれない。
「では私もハイドラと」
「私には敬語も使わなくて構いませんよ」
「以前も言いましたがこれは元々の性分なので、気にしないでください。でも、あなたはあなたらしい口調で話していただけると嬉しいです」
「じゃあ、そうします」
ポツポツと雫を落とすように会話する。
お互いに目も合わさず、小さな声で。
レイスリーネは淡い色の睫毛を瞬いて、銀色の髪をじっと見た。
指先で梳くと、やはり水分か栄養が足りないのかパサパサだ。
せっかくの長い髪なのに。
これも磨かねばと思っていると、ハイドラがおずおずと手から顔を上げた。
「……あの、もう」
「あ、はい」
撫でるのをやめてほしそうな声に、もう大丈夫かなとレイスリーネは両手を離した。
そのまま立ち上がる。
「みっともないところを見せてしまって、すみません」
「みっともなくないよ」
さっそくいつもの口調で答えながら、あれとレイスリーネは首を捻った。
「もしかして熱あった?そんなに疲れてたの?顔が……」
顔を上げたハイドラの頬は真っ赤だった。
疲労と栄養不足で色味の無かった肌が、耳まで真っ赤に染まっている。
「いえ、具合が悪いとかではない……ので、気にしないでください」
レイスリーネを直視せず、口元だけを隠してハイドラがもごもごと答える。
じっと見ても、体がしんどそうには見えないので、大丈夫かなとレイスリーネは納得した。
「なら、ゆっくり寝てね。明日は朝寝坊して大丈夫だから。」
「ありがとうございます」
今日で一番、力の抜けた口元だ。
少しはリラックス出来たのだとレイスリーネはいい気分でカップをワゴンに載せて部屋を出た。
ワゴンを押しながら、少し口角が上がってしまう。
ささやかだけれど、間違いなく無理のない笑みだった。
ただ残念ながら、せっかく笑ったのに瞳はまったく見えなかった。
前髪が長すぎる。
(見えないの、不満だなあ)
仲良くなれそうだと思ったけれど、これだけは何とかしたい。
しかし一応療養目的なので、あまりグイグイいってはいけないのは、レイスリーネもわかっている。
「ハーブティー、安眠しやすいといいんだけど」
とりあえず今夜の任務は達成だ。
明日からはハイドラのいる生活。
それがちょっと不思議だなと思いながらも、精一杯元気にしようとレイスリーネは今一度決意を決めた。




