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しばらく過ごしていたら、ハイドラからの申し出があった。
体を動かしたいとのことだ。
実はここ一、二年はやることが多すぎて体を動かす時間がとれなかったらしい。
それまでは貴族の子弟らしく剣術なんかも手習いでしていたと言うから、窮屈な思いをしていたのかもしれないと思い、レイスリーネは騎士団を紹介した。
チュクシオン家の誇る精鋭だらけの騎士団だ。
体力作りも熟知しているだろうから、無茶はさせないはずだと思って連れて行った。
そしてくれぐれも無茶はさせるなと言っていたけれど、ハイドラはなかなかに根性がある性格だったらしい。
しっかりと体力作りに励み、体の状態を着実に健康体へと変貌させている。
体力作りは上手くいっているのが目に見えてわかってきた。
筋肉がついてきたので、痩せていた体に厚みがついてきたのだ。
戦うための筋肉ではないので、ネコ科の動物のようにしなやかな雰囲気になってきている。
もともと背は高かったので、薄っぺらかった体が健康的になっていくのはレイスリーネにとって、とても満足のいく結果だった。
健康的な体バンザイ。
上機嫌でボウルの中身を泡だて器で混ぜていく。
チャカチャカと小気味よい音を立てながら、レイスリーネは鼻歌を歌っていた。
現在は厨房でお菓子作りの最中だ。
「レイスリーネ」
名前を呼ばれて振り返れば、ハイドラが厨房に入ってくるところだった。
「ここだと訊きまして。何をしているのですか?」
「お菓子作ってるの」
ハイドラの質問に、レイスリーネはあっけらかんと返事を返した。
「お菓子ですか?」
「意外と楽しいよ。図書室にある本で、お菓子作りの本があったの。我儘言ったら許してくれたから、時々作るんだ」
「そんなことが出来るんですね。今日はそれでお茶を?」
驚いて目を丸くするハイドラに、レイスリーネはしかし目をそらして泳がせた。
「いや、ハイドラには……別のものを」
「何故です?」
「……」
「私はせっかくなら、あなたの作ったものを食べたいのですが」
ハッキリ言い切られてしまった。
思わず「うぅ」と呻いてしまう。
けれどこちらの様子なんかハイドラは気にしなかった。
「ここで見ていてもかまいませんか?」
「……いいけど」
ここで追い出すのもなんだかなと思いしぶしぶ了解すると、ハイドラはにこりと笑って手元を覗き込んできた。
最近ハイドラは、愛想笑いでも諦めたり困惑したりの笑顔でもないものを浮かべてくれる。
浮かべてくれるのは嬉しい。
嬉しいけれど今ではない気がする。
おかげで突っぱねられなかった。
諦めて手元の作業を再開させると、ハイドラは月色の眼差しをレイスリーネの白い手へと注視する。
「興味深いですね。今は何を作っているんですか?」
「アップルパイだけど……」
ハイドラはじーっとレイスリーネの作業を見続けている。
何かが彼の琴線に触れたらしい。
それにしても見すぎだ。
いたたまれないにもほどがある。
「待って!やっぱり見学は無しで!」
舌の根も乾かぬうちにレイスリーネは了承を撤回した。
ハイドラが不思議そうに小首を傾げる。
「何故ですか?」
「なんか凄く緊張するから、無しで」
手元の作業も止めて声を上げると、一瞬目をぱちぱちと瞬いたあとでハイドラはふ、と吐息で笑った。
「わかりました。手元が狂ってしまったら悪いので、お茶の時間を楽しみにしています」
ハイドラはそう言うと、優雅に厨房を出ていってしまった。
やっぱり公爵令息は動きが洗練されてるなあと思ったあとで気づく。
「いつのまにか食べさせることになってる!」
ハイドラはお茶の時間を楽しみにしていると言った。
完全にこのあと食べる流れになっている。
「そんなつもりじゃなかったのに……」
おいしいものを食べさせたいとは思っていたけれど、それは私の作ったものじゃないんだよ、とレイスリーネは首をガクリと落とした。
別のお菓子とすり替えちゃ駄目かなと思ったけれど、すでにアップルパイと宣言してしまっている。
そして林檎はレイスリーネが使っているものが最後だ。
厨房の人間を呼んで作り直してもらうわけにもいかない。
詰んだ。
結局レイスリーネは焼き上がったアップルパイをワゴンに載せてのろのろと、ハイドラが待っていると伝えられた部屋へと向かっている。
お茶のワゴンを押しているメイドが続いているので、今すぐ引き返してお茶だけ届けてほしいと切実に思う。
おずおずと部屋のドアを開ければ、すでにハイドラが待っていた。
にこりとどこか機嫌良さそうに笑う顔が、いつもなら嬉しいのに今は憎らしい。
さきほどから何度目かの呻き声を上げているあいだに、メイドはお茶の用意をして出ていってしまった。
退出が迅速すぎる。
ワゴンをテーブルの横につけて、皿を並べる。
最後に残ったアップルパイの皿を持ち上げるけれど置く勇気が出なかった。




