名前を呼んで
最初の行き先だけは、もう、決まっている。リンの村から、半日ほど走った先の、少し大きな街。元々の、旅人の目的地で、旅人は、そこで、いろいろと補給を、するつもりの、ようだ。わたしも、行商で何度も、行ったことの、ある街だ。
朝に出たから、日が暮れる前には、着く。
なにも話さず、昼まで、走って、旅人に、休憩にしようと、声を掛けられた。
雪の上に、敷布を敷いて、座る。村長の妻が、昼に食べるように、と、食べものを、待たせて、くれていた。
「イウジェナ」
同じ敷布に、座った旅人が、わたしの、顔を、覗き込む。
「まだ、戻れる」
それは、優しさ、なのだろう。
首を振って、答える。
「戻るつもりは、ありません」
「そうか」
旅人が、わたしの、頭を、なでようとして、ためらったあと、頬に、触れた。編み込んで、まとめた髪を、崩しては良くないと、気を遣った、のだろう。
「あの」
頬に触れる、手に、手を重ねて、口を開く。
「名前」
「え?」
「なにか、呼び名がないと、困ると、思って」
今までは、旅人さん、で、良かったが、今ではもう、わたしも、旅人だ。
「それと」
呪い師は、ひとつ、わたしに、助言を、した。
若い女は、狙われるから、
「もし、あなたが、嫌で、なければ」
少しでも、狙われにくく、するために。
「わたしの、夫の、振りを、して、貰えませんか」
「え?」
夫婦の、振りを、した方が、なにかと、便利と、言われた。疑われにくく、狙われにくく、なると。
夫婦や、兄弟でも、なければ、男女がふたりで、旅するなど、おかしく、思われる、らしい。
「その、その方が、怪しまれないし、犯罪に、巻き込まれにくく、なると、聞いて」
「あ、いや、おれは、構わない、が」
旅人が、困ったように、わたしを、覗き込む。
「きみは、嫌では、ないのか。周りは、振りとは、思わない、だろうし、おれは、きみを、妻にと、望む男だ」
「そ、の、」
卑怯、だろうか。
「結婚の、予定は、ないから」
いくら、リーフィンが、待って、いようとも。
「誤解、されても、困らない」
「そう、か。なら、良いか。いや、良いのか?」
困った、顔の、旅人。
「いんじゃねーの?お互い、気になんねーなら。とりあえず振りから始めて、本当になることだってあるかもしれねーし」
ラディが、軽い口調で、援護してくれる。
「そう、だな。イウジェナが、望むなら、そうしよう」
「ありがとう、ござ、」
「だから」
わたしの、言葉の途中で、旅人が、手を挙げる。
「砕けた口調で、話して、貰えない、だろうか。その、シウィにも、ラディにも、敬語では、ない、だろう」
「あ、うん、わか、った」
村長夫婦は、夫婦でも、敬語だから、敬語でも、おかしくない、とは、思うけど。旅人が、そう、望むなら、敬語でない、方が、良いだろう。
「それで、ね」
改めて、旅人と、目を合わせる。
「呼び名を、なにか、付けさせて、欲しいの。でないと、なにかあったとき、あなたを、呼べないから」
「いや」
旅人が、首を振り、迷ったあとで、わたしを、見つめた。
「シェフィ、と」
「え?」
「おれの、名だ。よければ、それで、呼んでくれ」
「あなたの、名前は、」
「ああ、ラディが、話したのか」
旅人が、ラディに、目をやり、苦笑する。
「きみを、待つと言った、彼と、一緒だ」
「リーフィン、と?」
「きみが呼ばないなら、きっと、誰に呼ばれることも、ないから。だから、きみに、渡そう」
そんな、ことを、されても。
「わたしは、」
「彼と、同じだ。きみは、気にしなくて、良い。ただ、名を呼ぶなら、シェフィと、呼んで欲しい」
旅人が、シウィへ、目を向ける。
「シウィと、区別が、付けにくくて、すまないが」
「そんなこと。良い、名前、だと、思う」
「ああ、気に入って、いる。だから、呼んで貰えると、嬉しい」
どこか、照れたような、笑みで、旅人が、告げる。
「響きが、似ている、から、きみが、シウィを、呼ぶのを、聞くのが、好きだった」
そんなことを、言われたら。
シウィと、旅人を、見比べて、うろたえる。
シウィも、旅人も、呼びにくく、なってしまう。
「なあ」
困り果てた、わたしに、代わって、ラディが、口を開く。
「イウジェナに、解禁したなら、オレも呼んで良いのか、お前の名前」
「ん、ああ、構わん」
「ふーん。ま、いちばんは、イウジェナか。イウジェナが呼んだら解禁な!」
あくまで軽く、わたしを、追い詰める、ラディ。
「嫌なら、無理にとは、言わないが」
そして、あくまで、わたしに、甘い、旅人と、傍観する、シウィ。
「ぁ……の……」
でも、名前を、呼びたいと、言ったのは、わたし、だ。
名前が、大事だと、ラディに、訴えたのも。
「シェフィ」
「ああ。なんだ、イウジェナ」
険しい、顔の、ひとだと、思って、いた。とても、とても、厳しい、顔を、したひとだと。
「シェフィ」
「どうした?」
なのに、わたしが、名を、呼ぶだけで。
「シェフィ」
「!、どうした、どこか、痛いのか」
「シェフィ」
手を伸ばして、広い、肩をした、そのひとに、抱き付く。
「シェフィ、シェフィ、ごめん、なさい」
ただ、名前を、呼ぶだけで、こんなに、優しく、笑える、ひとなのに。
「どう、したんだ、イウジェナが、謝る、こと、なんて、なにも、」
「もっと、早く」
わたしより、ずっと、広い。けれど、寂しい、背中を、抱き締める。
「あなたの、名前を、呼べば、良かった。シェフィ」
愛しい。愛しい。
ああ、わたしの、なかにも、あったのか。
わたしも、ちゃんと、持って、いたのか。
「あなたが、愛しい。シェフィ」
「え……?」
ばりっ、と、わたしを、引き離して、シェフィが、呆然と、こちらを、見つめる。
「いと、しい?」
そんな、シェフィに、手を伸ばし、両手で、頬を、包む。
このひとを、愛したい。幸せに、したい。もう、険しい顔を、せずに、済むように。
「シェフィ、わたしは、あなたが、すき」
「どうして」
どうして、だろう。どうして、わたしは。
「わかんない」
わからない。うまく、言葉に、出来ない。でも。
「でも、きっと、お互い、欠けてて」
歪に、欠けて、歪んで、穴も空いていて。だから、人間と、しては、欠陥だらけで。
「その、欠けが、シェフィと、なら、埋められる、気がするの」
リーフィンでは、駄目だった。欠けのない、ひとでは、わたしには、苦しくて。でも、同じように、欠けだらけの、このひと、なら。
「あなたと、生きたい。シェフィ」
「イウジェナが、それを、望むなら」
シェフィの、頬を、包む、わたしの、手を、シェフィの、大きな、手が、包む。
「喜んで。おれも、きみが、好きだから」
「ありがとう。嬉しい」
こんな、どこにでもいる、村娘みたいな、言葉を。自分が、口に出来る、日が、来ると、思って、いなかった。
だって、こんなの、まるで。
人間、みたいだ。
「つまりさ」
オレを忘れるな、とでも、言わんばかりに、ラディが、口を挟む。
「振りじゃなくて、良いってことだな!」
「そっ、」
いや、確かに、お互いに、好きだと、言い合った、けれど。
「それは、まだ、ちょっと」
「ええー?」
「い、いきおい、で、決めて、良い、ことじゃ」
「人生、勢いも大事だぜ?」
ラディは、ひとごと、だからって。
「ラディ、イウジェナの、速度で、良いんだ」
そんな、ラディを、振り向いて、シェフィが、言う。
「えー?いやいや、ここは、勢いで圧すとこだろ?シェフィお前、悠長なこと言ってて横から掻っ攫われても、オレは知らねーからな?」
「そ、れは、俺も、嫌だが。勢いで、決めさせて、後悔される方が、嫌だ。イウジェナ、俺は、いくらでも待つ。ゆっくり、考えてくれ」
「ありがとう」
優しい、シェフィに、礼を言うと、ラディが、あー!と、地団駄を、踏んだ。
「イウジェナだって、いつまでもシェフィを待たせてたらほかのメスに掻っ攫われんだぜって、言えねーんだよ!こいつがイウジェナ以外を、好きになるはずねーんだから!」
「そう、なの?」
だすだす、と、悔しげに、雪を叩く、ラディに、問い掛ける。
「そうだよ!だって、十年だぜ?オレが同行するようになってからは、八年だ。こう見えてこいつ、稼ぎと顔が良いから、モテんだよ、メスに。でも、どんな美人の誘いにも、全く揺れねーの!八年間、一回もだぜ!?イウジェナ以外はメスと思ってねーんだよ、こいつは!」
「そ、そう、なん、だ?」
「口では、共に人生を歩めるひとを探したいなんて、言ってたけどな、その気が、全く、感じられない!のに!だぜ?イウジェナだけは、もう、明らかに、特別待遇だし、目で追ってるし、ちょっと目が合っただけで喜んでるし、隙あらば触ろうとするし!オレは!こいつが!理由もなく自分からメスに触ろうとするのを!八年間で!初めて見た!!」
ラディの、勢いと、圧が強くて、わたしも、シェフィも、口を、挟めない。
「だからイウジェナ、こいつがほかのメスになびく可能性はもうほぼないと思って良いんだけど、もう、オオカミばりに一途なオスなんだけど、オレ的には、考え込んでわけわかんなくなるくらいなら、勢いで突っ走っても良いと思うぜ!」
「うん、わかった、ありがとう」
たぶん、わたしは、最終的に、シェフィと、一生を、共にすることを、選ぶ。そもそも、妻としてでは、なくても、そのつもりで、命を、預けるつもりで、村を出たのだ。
けれど、安全な旅のための、振り、ではない、のならば。結婚なんて、するつもりの、なかった、わたしには。突然、はい、結婚します、なんて、決断は、怖い。
だって、結婚は、人間の、するもので。わたしは、人間としては、欠陥だらけで。
ちゃんと、結婚、なんて、出来る、気が、しない。
「ごめん、シェフィ、ちゃんと、考える、から」
「大丈夫。きみと、旅を、出来る、だけでも、夢のよう、なんだ。ゆっくり、考えて、くれ」
ああでもきっと、わたしが、結婚を受け入れれば、きっとまた、このひとは。
手を伸ばして、抱き付く。
「イウジェナ?」
「ちょっとだけ。ちょっと、だけ、待っていて」
きっと、そう、遠くない未来、わたしはこの、誘惑に、負けるの、だろう。
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