こころの居場所
作業場で待っていた、旅人は、ラディと共に現れた、わたしの顔を見て、目を見開いた。
「泣いた、のか?なにか、理不尽なこと、でも」
「違います」
ふるふると、首を振る。
泣いたと言っても、少しだけ。顔も洗って、それほど、普段と顔は、変わらないはず。だと言うのに、なんで気付くの、だろうか。
「昨日の、話は、全面的に、わたしを信じて、くれました。わたしも、ラディも、なにも、悪くない、と」
「なら、なぜ、泣くことに?」
旅人の手が、目の下をなでる。シワこそないが、荒れた、硬い手だ。
「村を、出ると、話して、それで、」
深く、呼吸を、する。
「たとえ、村を、出ても、ここを、帰る場所にして、良いと、村長が」
「ああ」
旅人が、ほっとしたように、笑う。
「それは、良いことだ。帰って良い、場所があれば、たとえ、行くあての、ない旅でも、ひとつの、よすがになる。根無し草より、こころも楽だろう」
このひとは。
故郷を追われ、帰ることの、許されない、このひとは。
なぜ、笑って、そんなことを、他人に言って、やれるのか。
「イウジェナが」
大きな手が、頭を、なでる。
「曲がらず、生きた、証だ。でなければ、帰って来て良い、なんて、言っては貰えない。よく、頑張って、生きて来たんだな、イウジェナ」
まるで、幼子を、褒める、みたいに。
なんで、と、思う。
だって、わたしは、"イウジェナ"を狙って、殺されそうに、なったことなど、ない。シウィに、両親に、村長夫婦に、村の大人に、守られて、生きて来た。
そんな、わたしより、この目の前の、旅人の方が、ずっと、険しい人生を、歩んで来た、はずなのに。ずっと、頑張って、来たはず、なのに。
なんで、わたしに、与えられるものが、彼には、与えられないのか。
なんで、自分は得られない幸いを得たものを、僻むことなく、ことほげるのか。
なんで。
「……なんで」
くしゃり、と、顔が歪む。視線が落ちる。
「イウジェナ?」
「大丈夫か?」
それまで、黙っていた、ラディまで、歩み寄って、来る。
首を振る。
「なんでも、ないです」
「なんでもない、顔じゃ、」
「なんでも、ない、です」
その優しさが、寛容さが、眩しくて、自分の矮小さを、思い知らされる。
「なにか、気分を害したなら、教えて欲しい。謝りたい」
首を、振る。
彼は、悪くない。悪くないから、悪い。
「イウジェナ、どんなことでも、いいから」
「あなたは」
床を見たまま、呟く。
「故郷に、帰りたい、とは、思わない、んですか」
息を、詰める、気配が、した。
「……少し、話をしても?イウジェナは、作業をしていて、構わないから」
頷いて、顔を上げないまま、仔狼の皮を浸した桶に、向かう。やはり、もう一日、浸した方が、良さそうだ。
「正直な、話を、すると、情けない、話に、なるが」
鞣し液と毛皮を、撹拌する水音に混じって、旅人の声が、響く。
「わからない、んだ」
相槌は、返さなかった。求められて、いないような、気がして。
「故郷を、追われたのは、もう、十四年も、前の話だ。今では、故郷で暮らした期間より、故郷を出てからの時間の方が、長くなった。それに、故郷を追われてからの、経験が、強烈で、故郷にいた頃の記憶は、もう、ぼやけている」
それは、そうだろう、と、思う。
直系ではない、とは言え、王の血族だ。おそらく、裕福で、なに不自由ない、暮らしをしていた、だろう。そこから、突然、家族を殺され、故郷を追われ、命を狙われたのだ。まだ幼いこころに、受けた衝撃は、いかばかりか。
「親兄弟は、処刑されたが、まだ故郷で、生きている親戚も、いるはずだ。親しい友人も、いたと、思う。けれど、顔も、名前も、思い出せない。なんとなく、いた気がする、くらいで」
撹拌を終え、手を拭きながら、振り向いて、見えた顔は、自嘲に、歪んでいた。
「会いたいと、思うほどの、記憶がない。記憶がないから、懐かしくも、思えない。会えば、思い出し、懐かしさも、わくのかものかも、しれないが。その機会がないし、その機会がないことを、惜しくも、思えない。冷たい人間と、思う、だろうか」
ああ、違うのだ、と、不意に、理解して、しまった。
悲しくない、わけがない。悔しくない、わけがない。寂しくない、わけがない。恨まない、わけがない。
それでも、生きるために、それを捨てなければ、ならなかったのだ。このひとは。
手を、伸ばし、両手で、頬に、触れる。
「あなたの、家族は、べつにいる、でしょう」
「イウジェナ」
「群れに、戻りたいと、思う、ことは?」
旅人が、目を見開き、それから、顔を歪めた。
「ある」
俯いた、旅人が、片手で、顔を覆う。
「旅先で、ふと、思い出す。オオカミを見たとき、白い毛皮を見たとき、深い森を、高い山を、降り積もる雪を、あの、森を思い出すなにかを、見るたびに、温かい群れと、仲間を、思い出す。どうしているだろうか、元気だろうかと、懐かしく、会いたく、思う」
「なら、あなたは、少しも、冷たくないじゃ、ないですか」
持っていたタオルを、旅人の顔に、押し付けた。
「生まれた場所が、帰る場所でなくても、いい。血の繋がりばかりが、家族の、証じゃない」
だって、シウィは、わたしの、家族だ。血は繋がらず、それどころか、種族すら違っても。言葉が、交わせなくても。
「ごめん、なさい。わたしが、変なことを、訊きました」
「いや」
タオルで顔を、覆ったまま、旅人が、答える。
「話して、良かった。イウジェナ、ありがとう」
「わたしは、なにも、」
「それでも。やはり、きみを、愛しく思う」
「なっ……」
突然の言葉で、顔に火が灯る。
旅人は、タオルから顔を上げずに、はは、と、笑った。
「忘れないでくれ。きみは、愛されていると。邪魔をして、すまない。もう行く」
「あ、の、毛皮の、番、ありがとう、ございました」
「どういたしまして。村にいる間なら、また、いつでも頼んでくれ。タオル、悪いが、少し借りる」
ぽん、と、見ないまま、わたしの頭を、なでて、旅人は、出て行った。
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