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茉莉花の少女  作者: 沢村茜
第四章
23/34

信じること(下)

 彼女の家を出て、大通りに出たとき、彼女を呼び止めた。


 彼女はクセのある髪の毛を揺らして振り返る。その時の彼女はあまりに普通で、さっき父親と僕が会ってしまったことを全く気に留めていないようだった。


「忘れ物でもした?」

「お父さんに知られても平気だった?」

「大丈夫だよ。何も言われなかったでしょう」


 彼女はそれだけを言うと肩をすくめて寂しそうに笑っていた。


「それより教科書取りに行かないとね」

「先輩はこの辺で待っているか、家にいてもいいよ」

「いいよ。わたしもついていく」


 そう言いだした彼女が僕の話を聞くわけもなく、僕たちは僕の家に教科書を取りに戻る。

 アパートの前に来ると、彼女にここで待っていてほしいと告げる。

 彼女は僕のアパートを見ても驚いた様子もなく、満面の笑みで頷いた。


 階段をあがり、扉に触れた時、玄関の鍵が開いているのに気付いた。僕の胸に嫌な予感が過ぎる。

 自ずと心拍数が上がる。彼女のことは以前のように気にはしていない。だが、それと茉莉の家に泊まった事を知られるのとは別問題だ。


 彼女が寝ていることを願っていたが、居間に人影があった。テレビを見ていた彼女の視線が僕を捉える。彼女は口元を歪め、僕を見る。


「あんたが朝帰りね」


 僕は彼女を無視し、自分の部屋に入ろうとしたとき、追い打ちのような彼女の声が背中に刺さる。


「結局、あんたもわたしの子供だったわけだ」


 僕の眼前にある扉が歪んでいた。その歪んだ扉を開け、中に入る。僕の心臓はけたたましく鳴り響く。僕は何度も呼吸を繰り返し、心拍数を出来るだけ抑えると、必要な教材を鞄に詰め込んだ。そして、彼女に脇目を振らず、家を飛び出すように出た。


「久司君、どうかしたの?」


 彼女は僕の表情から何かを悟ったのか、慌てた様子で駆け寄ってくる。彼女の心配そうな顔を見て、彼女と昨日キスをしたことを思い出していた。


 母親と同じ。その言葉が頭の中で木霊し、身震いした。


 あれほど嫌っていた母親に似たくはなかった。


「久司君?」


 彼女が僕の腕をつかもうとした。だが、僕はそれを避けていた。

 茉莉が顔を引きつらせる。


「学校に行こう」


 彼女に対する罪悪感はあるが、彼女を気遣う余裕はない。混乱する頭で必死に自分のすべきことを導き出す。


 彼女の子供だからこそ、茉莉にキスをしてしまったのだろうか。


 その時、背後でアスファルトを踏みしめる音がした。


「あなたが久司の彼女?」


 誰か確認しなくても、その低い声の持ち主はすぐにわかる。少し落ち着いたと思う僕の心臓は再び激しく鼓動する


「そうですけど」


 茉莉は鋭い目つきで彼女を見る。だが、すぐにその鋭さが消え、瞬きをしていた。恐らく彼女はそれが誰か気づいたのだろう。


 茉莉は僕を見るが、自分のことに精一杯で助け船を出すことも、学校に行こうと彼女の腕を引っ張ることもできなかった。


 茉莉は彼女に対して、クラスでの完璧な笑顔を浮かべ、深々と頭を下げる。


「そうです。昨日はわたしの兄のほうが彼を引き止めてしまって申し訳ありませんでした。後日、お詫びをさせていただこうと思います」


 彼女は茉莉を脅すためにやってきたのかもしれない。逆にすらすらと言葉を導き出す茉莉を呆気にとられたような表情を浮かべている。


「そんなこと気にしなくていいわよ。ただ、聞いてみただけ」


 彼女はそれだけを言い残すと、踵を返した。


 彼女に母親を見られたくなかった。

 その存在を知られたくなかった。


 僕は茉莉に連れられ、学校に行くが、その通学途中も、昼休みも彼女の顔を直視することができなかった。

 彼女は幾度となく、言いかけた言葉を呑み込んでいた。


 帰りも彼女と一緒だったが、彼女は僕を気遣いながらも、いつもと同じ笑顔を浮かべる。

 僕は彼女と目線を合わせることさえできなかった。

 彼女の家が近付いてきたとき、彼女は僕の手を握る。だが、母親の言葉がちらつき、いつもなら握り返すその手を握り返すことができなかった。


 僕は彼女を家まで送ると、足早に立ち去ろうとした。だが、立ち去ろうとした僕の腕を彼女がつかむ。彼女は強引に僕を家の中に導いた。


 彼女は玄関の扉の前に立つと、真剣な目で僕を見据える。


「どうしたの?」


 僕は唇を軽く噛む。


「昨日、キスして悪かった」


 彼女の瞳に悲しみが映る。僕がそうさせたのは分かっているが、胸が張り裂けそうなほど痛い。


「久司君は嫌だった?」

「嫌じゃないけど、同じにはなりたくなかった」

「同じってあなたのお母さんと?」


 彼女は勘がいいのだろう。僕が何を迷っているのかに気づいていた。


「わたしの部屋に行こうか」


 彼女は鍵をかけると、靴を脱ぐ。僕も靴を脱ぎ、彼女の部屋まで行く。


 彼女の出してくれたクッションの上に正座をすると、僕は少しずつ話をした。


 家のこと、母親のこと、父親のこと。そして祖父母のこと。結局全てを話すようになってしまったのはどこからどこまでを話せばいいのか分からなかったのだ。


「昨日、わたしとキスをしたことが汚いことだって思ってしまったの?」


 彼女の言葉にうなずいていた。


「でも、嫌じゃなかったんでしょう?」

「そうだけど、でも」


 彼女は僕の手を包み込むように握り締めた。だが、彼女の手を握り返すことができずに、行き場のなくなった僕の目は窓の外に向く。窓辺には彼女が奈良からもらった花と茉莉花が飾られていた。


 その花の先に広がる空は、悲しそうで虚ろに見える。


「わたしは昨日、キスしてくれてうれしかったよ。だから汚いことをしたなんて思っていない。そんなこと気にしなくていいんだと思うよ。難しいことは分からないけど、久司君もわたしも嫌じゃなかったことが大事なんだよ」


 彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かぶ。


「幼いときにそんなものを見てしまったのがショックだったのかもしれないね」


 彼女の細い手が僕の体に伸びてきて、肩に触れる。気付いたときには彼女の腕の中にいた。


「ごめん。変な話をして」

「気にしないで。久司君が話をしてくれてうれしかったの。それに、久司君の家族のことなんとなく知っていたの」


 僕は至近距離にある彼女の顔を見つめた。


 だが、良く考えると、彼女はそれらしいことを言っていたのだ。


「だから、あのとき僕なら手を出さない、と」


 彼女はうなずいた。


「久司君はわたしの学年でも人気があったんだよ。その時、あなたのことを調べている子もいてね。家族のことを小耳に挟んだの」

「そうだったんだ」

「黙っていてごめんね」


 僕は首を横に振る。


「自分を責めないで。うまくいえないけど、久司君は悪い子じゃないから。だから、だからね」


 彼女は言葉が見つからなかったのか、接続詞を繰り返し、まるで幼稚園児をなだめているような気がした。彼女はたどたどしい口調で言葉を続ける。


「久司君が嫌なら、似ていないの。それに久司君は女の子に告白されてもつきあわなかったでしょう? だからそんなことないの。そう。だから。それに久司君は勉強だってしっかりしているし、きちんと頑張っているでしょう? だから、このまま生きていけばきっと大丈夫だよ。わたしは久司君のことがずっと、ずっと好きだったから、分かるの。すごくまじめな人だって。そうじゃなきゃ、キスだってしないよ」


 その時、僕の頬に水滴が触れる。それは彼女の目から零れ落ちた涙だった。彼女は僕に絡めた腕を解くと、僕の頬に落ちた涙と、自分の頬を伝った涙を何度もぬぐい、その度に頸を横に振る。


「わたしが泣いたらいけないのに。ごめんなさい」


 そう口にしても何度も彼女の目には涙が浮かび上がる。


「結局、何が言いたいかといえばね、わたしが好きならわたしのことを信じて。わたしが違うといったら違うの。分かった?」


 うまくまとめることができなかったのか、そんなことを彼女が言い出した。


 もうめちゃくちゃだと思った。でも、彼女の表情はあまりに必死で、まじめにそんなことを言う彼女になぜか笑っていた。


「どうして笑うの?」


 彼女は頬を膨らませて僕を睨む。


「ただ先輩があまりに必死で」

「当たり前でしょう? 久司君が悲しい気持ちでいたらわたしも悲しい」


 彼女の目からまた涙がこぼれ、彼女は慌ててその涙を拭う。


 彼女があのときと同じように僕のために泣いてくれていると痛感し、なぜか胸をなでおろしていた。その理由は彼女が僕を心配してくれていると感じ取ったためだ。


「ありがとう。少し落ち着いた」

「本当に? 無理してない?」

「してない。もう大丈夫」

「よかった」


 彼女は再び目に涙が溜まっていたが、それを拭わずに笑みを浮かべていた。


 母親の言葉に惑わされる必要なんかなかった。


 結局、彼女はこれからの人生は自分でどう生きていくかが必要で、自堕落な生活を送るのも、親に似るのも似ないのも、結局、僕次第だといいたかったのだろう。


「何か泣いたら眠くなってきちゃった」

「先輩?」


 そのまま僕の体に倒れ掛かる。すぐに寝息が聞こえてくる。


 無防備な彼女を見ていると、昨日のような彼女に触れたいという気持ちよりも、さっきの必死な彼女のことを思い出し、微笑ましい気分になってきた。


 母にどう言われようと、自分で自分を信じていればいいと、何度も自分に言い聞かせた。


 目を覚ました彼女は今朝の僕のように変な声を出してのけぞっていた。


 いつも余裕たっぷりな彼女の反応がただおかしくて、僕はまた笑っていた。



 彼女は頬を膨らませ、怒ったような素振りをしていたが、しまいには僕につられて笑い出していた。



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