信じること(上)
◇
小学生の時、学校から帰ると居間にいる母親の姿に見たことのない男の姿が重なっていた。
僕は帰宅したばかりなのに再び家の外に飛び出した。
母親と見知らぬ男とのキスはただ汚くて、映画で見た血まみれの死体のように消したいものに分別された。
そういった記憶ほど生々しく残り続けるもので、忘れたいと思えば思う程、頭の中に焼き付いていく。そして、ただ気持ち悪いという感情が僕の心に残った。
◇
「そろそろ起きろよ」
僕は自分の体が揺さぶられているのに気づく。
いつも僕を起こすのは機械の音のはずなのに、思考のはっきりとしない頭で誰の声か考えてた。
「久司君。朝ですよ」
その声に反応して、思わず目を開ける。
僕の顔を覗き込んでいたのは大きな瞳をした少女だった。彼女は僕と目が合うと、満面の笑みを浮かべる。僕と彼女の間は拳二つほどしか離れていない。
「先輩、顔が近い……」
思わずそう言葉にするが、徐々に声が小さくなっていく。
「茉莉、あんまり覗き込むなよ。困っているぞ」
「ごめんね。でも、これで遅刻しないで済みそうでよかった」
先輩はいたずらがばれて叱られた子供の用に、申し訳なさそうな顔をしながらも、笑顔を浮かべている。
僕は何でここにいるんだろう。
体を起こすと、寝癖のついた髪の毛をかきあげる。
「茉莉はごはんの準備でもしていろ」
「はーい」
彼女は元気な返事をして、「またね」と言い残し、障子を開けて部屋から出て行く。
僕が眠っていたのは和室で、タンスとサイドテーブルだけのあるシンプルな部屋だ。
優人さんは困ったように頭をかくと、僕を見た。
「お前は昨日、茉莉を送ってきたのは覚えているよな?」
「はい」
遊んでいた彼女をずっと見守り、暗くなったので彼女を家に送ろうとしたのだ。
だが、僕がくしゃみをしたのを風邪を引いたと勘違いした彼女が強引に体を温めて行けと言い出したのだ。そして、彼女はコーヒーを出してくれ、それを飲んだのまでは覚えている。だが、その後の記憶がさっぱりない。
「俺が家についたら、お前はソファで眠っていたんだよ。茉莉に聞けば、コーヒーを飲んだあとにうとうとして眠ったらしい。起こしても起きないし、とりあえず客間に運んだ。最近、あまり寝ていないのか?」
「疲れが一気に出てしまったのかもしれません。迷惑をかけてすみません」
「こっちは別にいいよ。布団を敷いて寝かせただけだから。でも、お前の家は大丈夫か? 家に連絡をしようにも連絡先を知らないし、携帯を勝手に触るのもどうかと思って、連絡もしていない。何か言われるなら、俺が謝るよ」
「大丈夫ですよ。家はほぼ一人暮らしですから」
母親が帰ってくるのは二週間に一度程度で、数ヶ月帰らないときもある。実際は僕が学校に行っている間に帰っているようだが、顔を合わせなければそれは同じだ。まさか今日に限って帰宅している可能性は低い。
彼は眉間にしわを寄せて、顔を覗き込む。
「前から聞きたかったんだけど、お前、普段、どんなものを食べているんだ?」
「適当に」
「インスタント食品とかを食べてそうだよな」
「そういうのも多いですが、たまに料理をしますよ」
ただ、面倒で最近はインスタント食品ばかりを食べていることが多かった気がする。
「余計なおせっかいだけど、ちゃんと野菜も食べろよ。茉莉もよくお前の食生活を心配していて、なかなか聞けないみたいだったよ」
「茉莉さんが?」
「今朝もお前においしいものを食べさせるってがんばっていたよ。あまりあいつに心配をかけさせるなよ。もし、料理を作るのが大変なら夜食べに来ても構わないよ。俺の作った料理だけどな」
「大丈夫です。そこまで迷惑はかけられません」
彼の申し出は断ったが、心の中が不思議と温かくなるのを感じていた。
「それなら無理強いはしないが、お前は今日、学校だよな。シャワーとか浴びるか?」
「いいですよ。着替えもないし、一日くらいなら」
「それならいいけど、家には一度帰らないとまずいよな」
彼は僕の鞄に目を向ける。
「車で送ろうか?」
「まだ早いから大丈夫です」
彼に対しては初対面の印象が何より色濃く残っていたためか、どうしても怖い人という印象がぬぐえなかった。夏の旅行もほとんど話をする機会に恵まれなかったのだ。この短い会話で彼のことを知ったつもりになるのは良くないが、今まで僕が接した大人の男の人の中では一番いい人のような気がした。
年上の男というと母親の恋人や父親しか知らないけれど。
「どうかしたのか?」
彼は眉間にしわを寄せて、僕を見る。
「親切な人だなって思って」
「そんなくだらないことを言ってないで、ごはんでも食べてこい。歯ブラシやタオルは枕元に置いているから、それを使えよ」
彼はそう言い残すと部屋を出ていく。
今日も仕事なのに迷惑をかけてしまったのだろう。
枕元を見ると、タオルと未使用の歯ブラシが置いてあった。僕は洗面所に行くことにした。
夏休みに彼女の家に通っていたので、どこに何があるのかは分かっていた。
歯を磨き、顔を洗うと、制服を整え、リビングに入る。
そこには茉莉がいて、彼女は四人分の食器を準備していた。
四人ということは残る一人は彼女の父親だろうか。そういえば、僕は彼女の父親には一度も会ったことはない。
「お父さんは?」
「まだ寝ていると思うよ」
「昨日、泊まったこととか知っている?」
「うん。疲れているみたいと言ったら、寝かせておけばいいって言われたよ」
兄といい、父といいあまり細かいことは気にしないタイプなのだろうか。
「でも、お父さんにはお兄ちゃんの友達と言っているからよろしくね」
「分かった」
始めて彼女の家に行ったときもそんなこと言われた気がする。
娘の恋人が家に泊まったなんて聞いたら、普通は気が気じゃないだろう。恋人と行っても僕と茉莉は本当の恋人なのだろうか。昨日のできごとがなければ、振りだと断言できたのに、そう言いきれなくなっていた。
いつの間にかスーツ姿の優人さんがリビングに入ってきていた。彼は一番近くの席に座る。
「いくらあの人が鈍いと言っても、気づいているみたいだよ」
「本当に? でも、何も言われない」
茉莉の言葉に、優人さんは寂し気な笑みを浮かべる。
「お前たちはご飯を食べろよ。こいつは授業道具を取りに帰らないといけないみたいだから」
僕たちは優人さんに急かされ、早くごはんを食べることにした。
どこに座っていいか迷っていると、優人さんが自分の隣の席を指差した。
友人だからだろう。
献立はごはんに味噌汁、そして野菜の炒めものと卵焼きだ。こんな普通の朝食は久しぶりのような気がする。
「これ、わたしが作ったんだ」
彼女はきつね色にやけた卵焼きを指差す。
僕がそれを食べると、彼女は目を細めて微笑んでいた。
ごはんを食べ終わり、僕たちは荷物を整え、玄関に集合する。靴を履き、見送ってくれた優人さんに挨拶をしようと振り返った時、長身の男性が視界に入る。優人さんによく似た年配の男性だった。すっきりとした目元をしているのに、目鼻立ちが整っていて、くどい印象を全く与えない。 だが、寝起きなのか、疲れているのか、顔色が悪い気がする。
「君が久司君か?」
彼は優人さんよりも一段と低い声で、そう言葉を紡ぐ。穏やかに話す人だと思った。
何か言われるだろうかと思ったが、僕がうなずくと、「そうか」とだけ言っていた。
「挨拶が遅くなったが、わたしは茉莉と優人の父です。茉莉はおっちょこちょいなところがあるから、頼むよ」
その言葉を聞いて、優人さんの言ったように気づいているのだと分かった。
「時間ないから行くね」
茉莉の言葉に急き立てられ、僕たちは彼女の家を後にした。




