EP 2
森の野盗と、肉まんに釣られた極貧人魚姫
自由だ、と大草原の中心で叫んでから数時間が経過した。
丸川光雄は、見知らぬ異世界の森を一人、あてもなく歩いていた。
「……信じられないくらい、体が軽いな」
光雄は自身の分厚い掌を握り、そして開いた。
前世での連日の徹夜作業と、クレーム対応による慢性的な胃痛は完全に消え去っている。それどころか、足を踏み出すたびに、大地を力強く蹴り上げるバネのような躍動感が全身から伝わってくる。
大学のラグビー部時代、ナンバーエイトとしてグラウンドを駆け回っていた全盛期の肉体――いや、それ以上の力がこの身体には宿っていた。アナステシア世界における『闘気』という概念を、光雄の身体は既に本能レベルで理解しているようだった。
「さて、問題は現在地と、今後のロジスティクスだが……」
商社マンとしてのクセで、光雄は冷静に現状を分析する。
周囲は深い森。遠くに人工的な煙のようなものが見えるため、人が住む集落が近くにあるのは間違いない。まずはそこを拠点にするのが合理的な判断だ。
不安はない。光雄には、女神ルチアナから授かったユニークスキルがある。
「【コンビニ】」
光雄が小さく呟くと、何もない空中に四角い透明なウィンドウが浮かび上がった。そこには見慣れた現代日本のコンビニエンスストアの陳列棚が、ホログラムのようにズラリと並んでいる。
光雄が虚空に手を入れると、指先がひんやりとしたプラスチックに触れた。そのまま引き抜くと、手には見慣れた『天然水(500mlペットボトル)』が握られている。
「……すげえ。本当に何でも出せるのか」
キャップを開けて一口飲む。冷たくて美味い。
これさえあれば、補給線は無限も同然だ。飢えや渇きの心配がないというのは、未知の環境において最大の精神的アドバンテージだった。
「よし、まずはあの煙の上がる集落を目指して――」
光雄が歩き出そうとした、その時だった。
「や、やめてくださいませ! これ以上、私から奪うものなんてありませんの!」
前方から、少女の悲鳴が響き渡った。
光雄はピタリと足を止める。
商社マンとしてのリスク管理アルゴリズムが『無用なトラブルには関わるな』と警告を発する。この世界における自分の相対的な実力がまだ不透明な以上、他人の諍いに首を突っ込むのは非合理的だ。
しかし――光雄の根底にあるラガーマンとしての精神が、困っている人間を見捨てることを許さなかった。
「……合理的に考えて、ここで見殺しにして寝覚めが悪くなるコストの方が高くつく、か」
自分への言い訳を口の中で呟き、光雄は悲鳴の上がった方向へ音もなく駆け出した。
森の開けた場所に出ると、柄の悪い3人の男たちが、一人の少女を円陣で囲んでいた。
男たちはボロボロの革鎧を着て、錆びた剣や斧を持っている。どう見ても野盗だ。
対して、囲まれている少女の姿は、あまりにもこのファンタジーな世界観から浮きまくっていた。
透き通るような青い髪と、宝石のように美しい瞳を持つ、息を呑むほどの美少女。
だが、その服装はなぜか『エンジ色の芋ジャージ』であり、足元は『健康サンダル』だった。
しかも、彼女は震える両手で『パンの耳』と『真鍮の五円玉』を大事そうに胸に抱え込んでいる。
「へへっ、いい身なりじゃねえか。そのジャージってやつ、高く売れそうだなぁ!」
「さっさと有り金全部出しな。命までは取らねえよ」
「だ、だから言ってるじゃないですか! 私の全財産はこの五円玉一枚と、パンの耳三本だけですの! これ以上搾取する気なら、お賽銭箱型掃除機であなたたちの運気ごと吸い取りますわよ!」
ジャージの美少女――リーザが涙目で叫ぶが、野盗たちは下品な笑い声を上げるだけだ。
野盗の一人が、リーザの細い腕を掴もうと手を伸ばした。
「おい」
低く、よく通る声が森に響いた。
野盗たちとリーザが弾かれたように振り向く。そこには、ワイシャツの袖をまくり上げた光雄が、静かに立っていた。
「よってたかって、趣味の悪いジャージを着た女の子をいじめるのは感心しないな。営業妨害だぞ」
「あぁん? なんだてめえ、丸腰のくせに舐めた口を……ぶっ殺してやる!」
激昂した野盗の一人が、錆びた剣を振り上げて光雄へと突進してくる。
剣の軌道は素人目にも単調だった。
光雄は一切の動揺を見せず、重心を低く落とす。そして、自身の体幹の奥底から湧き上がる『闘気』を、右の手のひらへと極限まで圧縮した。
相手が剣を振り下ろすより早く、光雄の右手が野盗の胸板を的確に捉える。
「【剛体ハンドオフ】」
――ドゴォォォォンッ!!
爆発音のような鈍い打撃音が響いた。
光雄の掌底を受けた野盗は、まるでダンプカーに撥ねられたかのように両足を宙に浮かせ、十メートル以上後方の巨木まで一直線に吹き飛ばされた。
ドシャアッ、と音を立てて木に激突し、白目を剥いて崩れ落ちる野盗。首の骨を折らずに衝撃だけを内部へ浸透させる、完璧な力加減だった。
「なっ……!?」
「ひ、ヒィィッ!?」
残された二人の野盗が、信じられないものを見る目で光雄を凝視する。
光雄は無造作に歩み寄ると、一瞬で二人の懐へと潜り込んだ。
死角からの、超低空タックル。
「【低空刺突タックル】」
ドスゥゥゥンッ!!
二人の野盗のうちの一人の膝裏へ、闘気で鋼鉄のように硬化した光雄の肩が突き刺さる。男は声にならない悲鳴を上げ、脳天から地面へと綺麗に突き刺さって完全に沈黙した。
それを見た最後の一人は、武器を放り出して「化け物ぉぉッ!」と叫びながら、森の奥へと一目散に逃げ去っていった。
「……ふう。とりあえず、こんなもんか。ノーサイドだな」
光雄はワイシャツの襟元を正し、小さく息を吐いた。
そして、地面にへたり込んで口をぽかんと開けている芋ジャージの少女――リーザへと振り返る。
「大丈夫か? 怪我はないか」
「あ……えっと……」
リーザは呆然としていたが、我に返ると「痛っ」と小さく顔をしかめた。見れば、野盗から逃げ回った際に転んだのか、ジャージの膝が破れ、白い肌に擦り傷ができている。
「動くなよ。すぐ手当てする」
光雄は再び虚空に向けて【コンビニ】のスキルを展開した。
空間から引き出したのは、見慣れたパッケージの『消毒液』と『大判サイズの絆創膏』。手際よく消毒液を吹きかけ、絆創膏を丁寧に貼り付ける。
「ほら、これで大丈夫だ。……それよりお前、腹鳴ってるぞ」
光雄が指摘すると、リーザは顔を真っ赤にしてお腹を押さえた。
手には泥まみれになったパンの耳が握られている。極貧生活を送る彼女にとって、それは今日を生き延びるための命綱だった。
「……あの、これは……」
「そんな泥まみれのパン、食ったら腹壊すぞ。こっちを食え」
光雄は三度、スキルを発動した。
取り出したのは、冬のコンビニのレジ横で燦然と輝くホットスナックの王様。
専用の保温ケースから出されたばかりの、湯気を立てるアツアツの『本格肉まん』である。
光雄は包み紙を少し剥き、リーザの手に押し付けた。
「え……? こんな、温かくて良い匂いのするもの、私なんかが頂いても……?」
「いいから食え。冷める前に」
リーザは恐る恐る、肉まんに口をつけた。
――ふわりとした少し甘みのある生地。
その奥から溢れ出すのは、ジューシーな豚肉の強烈な旨味と、タケノコや椎茸が織りなす絶妙な食感、そして身体の芯まで温まる熱気だった。
公園の野草とパンの耳で命を繋いできたリーザの味覚に、現代日本のジャンクな旨味の暴力が容赦なく襲いかかる。
「あ、あ、あああっ……!!」
一口、また一口と頬張るごとに、リーザの大きな瞳から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「お、おい、泣くほど熱かったか?」
「違いますの……! こんな美味しいもの、産まれて初めて食べましたの……! お肉が、お肉が甘いですのぉ……っ!」
あっという間に肉まんを平らげたリーザは、顔中を涙と肉汁でぐしゃぐしゃにしながら、ガバッと光雄の足元にすがりついた。
「助けていただいた上に、こんなに素晴らしい施しまで……! あなた様は神様ですの!? 一生ついていきますの!」
「おいおい、離れろって。俺はただの通りすがりの――」
「スポンサー様ああああっ!! どうか、どうかこのリーザに、これからも美味しいご飯を貢いでくださいませぇぇっ!!」
「なんで助けた俺が貢ぐ側になってんだよ!」
初対面の少女からの重すぎる、そしてあまりにも現金な要求に、光雄の鋭いツッコミが異世界の森に虚しくこだました。
社畜生活を抜け出し、静かでマイペースなスローライフを思い描いていた光雄。
だが、極貧の地下アイドル人魚姫に目をつけられたことで、彼の平穏な計画は開始わずか数十分で脆くも崩れ去ろうとしていた。
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