第一章 社畜サラリーマン人生やり直しのポポロ村定住・死蟷螂討伐編
終電の女神と、自由へのチケット
ガタン、ゴトン、と単調なリズムを刻む終電の車内。
日付はとっくに変わり、窓ガラスには疲れ切った男の顔が反射していた。
丸川光雄、25歳。
中堅商社の営業兼ロジスティクス担当として働く、いわゆる社畜である。
「……あー、クソ。また胃が痛くなってきた」
光雄はネクタイを少し緩め、分厚い胸板を覆うワイシャツの上から胃のあたりを押さえた。
身長182センチ。大学時代は強豪ラグビー部でナンバーエイトやフランカーを務め、ゲームキャプテンまで任された強靭な肉体と体幹を持っている。
だが、どれだけフィジカルが強くても、理不尽なクレームや、下請けと上司の間に挟まれるロジスティクスの板挟みストレスには勝てない。
今日だってそうだ。取引先の無茶な納期変更のせいで、倉庫の在庫管理から配送トラックの手配まで全てゼロから組み直し、謝罪の電話を何十件もかけ続けた。
誰も見返りなどくれない。責任だけが重くのしかかる。
「人生やり直してぇ……仕事、辞めてぇ……」
誰もいない車両のシートに深くもたれかかり、光雄は天井の蛍光灯を見上げてぽつりとこぼした。
もし、違う世界があるなら。
理不尽なエクセル入力も、鳴り止まない社用スマホも、満員電車の匂いもない世界に行けるなら。
「——じゃあ、人生やり直してみる?」
不意に、隣から声がした。
「……は?」
驚いて横を向くと、いつの間にか一人の女が座っていた。
乗客は自分一人だったはずだ。そもそも、この女はいつ乗ってきた?
そして何より、その女の格好は深夜の電車にはあまりにも不釣り合いだった。
上下ピンク色の芋ジャージ。足元は健康サンダル。
年齢は光雄より少し下、17歳くらいに見えるが、その整った顔立ちは息を呑むほどの絶世の美女だ。
しかし、漂ってくるのはピアニッシモ・メンソールの煙草の匂いと、微かな缶ビールのアルコール臭だった。
「お疲れ様、日本のサラリーマン。私はルチアナ。永遠の17歳にして、惑星創造神格公務員……まあ、あんたらの言葉で言えば『女神』ってやつよ」
「……あー、なるほど。ついに俺も幻覚を見るようになったか。明日は有給取ろう」
光雄が冷静に目を逸らし、目を瞑ると、ルチアナは舌打ちをして光雄の肩をバシッと叩いた。
「幻覚じゃないわよ! 失礼ね、これでも激務の合間を縫って直々にスカウトに来てあげたのよ!? こっちだってねえ、ゴッドチューブのPV稼ぎとか予算のやり繰りとかでハゲ上司に絞られて、ストレスで胃に穴が空きそうなの!」
「……女神が『ゴッドチューブのPV』? 予算?」
「そうよ! 私が管理してる『アナスタシア世界』ってのがあるんだけどね。最近、マンネリ気味で視聴率が伸び悩んでるの。神界の予算はPVと高評価率で決まるから、このままだと私の推しアイドルのライブ遠征費……じゃなくて、世界の維持費がヤバいのよ」
ルチアナは懐から、やたらとゴツい耐衝撃ケースに入ったスマートフォン——エンジェルすまーとふぉん——を取り出し、画面をタップしながら愚痴り始めた。
光雄は持ち前の現実主義と合理主義な思考をフル回転させた。
目の前の女が本物の女神だという証拠はない。だが、漂うアルコール臭と妙な生活感、そして何より「予算とノルマに追われる公務員」という点に、社畜としての奇妙なシンパシーを感じてしまった。
「……百歩譲って、あんたが本物の女神だとしよう。俺をどうする気だ?」
「話が早くて助かるわ。あんたを私のアナスタシア世界に異世界転生させてあげる。あんた、ラグビー仕込みのいいガタイしてるし、トラブル対応にも慣れてるでしょ? 適当に無双して、世界を面白く引っ掻き回してくれればそれでいいわ。もちろん、特典として『ユニークスキル』を一つあげる。どう? 悪い話じゃないでしょ?」
ルチアナがにやりと笑う。
異世界転生。チートスキル。
普通なら即答で飛びつくシチュエーションだろう。だが、光雄は営業マンとしての冷静さを失わなかった。
「待て。条件を詰めさせろ。その異世界は言葉は通じるのか? 治安はどうだ? あと、与えられるスキルは俺が選べるのか?」
「言葉は自動翻訳機能をつけるわ。治安は……まあ、魔法とか闘気とか魔獣がいる中世ファンタジーベースだから、それなりに物騒ね。スキルは、私のクレジットカードの限度額(100万円)に収まる範囲なら、ある程度は融通してあげる。聖剣でも、最強の魔法でも、なんでもいいわよ」
魔法。聖剣。
確かに魅力的だ。だが、光雄の思考は全く別の方向へ向かっていた。
(中世ファンタジー……物資の流通網は間違いなく未発達だ。未知の世界で生き抜く上で最も重要なのは、剣の腕でも魔法の威力でもない。『安定したロジスティクス(兵站)』だ)
光雄は大学で学んだ経済学と、商社での実務経験から一つの最適解を導き出した。
「……スキルは、俺の指定するものを頼む。魔法や剣はいらない」
「あら、珍しいわね。じゃあ何を希望するの?」
「『コンビニエンスストア』だ」
「……は?」
ルチアナがぽかんと口を開けた。
「日本のコンビニの店舗、設備、そして全ての商品を自在に呼び出せる能力。それさえあれば、俺はどんな環境でも生き抜ける」
「いやいやいや! 異世界よ!? 魔王とかドラゴンとかいるのよ!? コンビニでどうやって戦うのよ!」
「そこは俺がなんとかする。……というか、限度額的に無理なのか?」
光雄があえて挑発するように言うと、ルチアナはムキになってエンジェルすまーとふぉんを操作し始めた。
「む、無理じゃないわよ! なめないでよね、それくらいちょちょいのチョイよ! えーと、スキルの設定を【コンビニ】にして……っと。よし、承認完了!」
ルチアナがスマホの画面を光雄に向けると、眩い光が車内を包み込んだ。
「それじゃあ丸川光雄! 契約成立よ! 私の予算アップのために、せいぜい派手に暴れ回ってよね!」
「あ、おい、ちょっと待——!」
光雄の言葉は、光の奔流にかき消された。
——チュン、チュン。
鳥の囀りで、光雄は目を覚ました。
身を起こすと、そこは電車のシートではなく、見渡す限りの大草原だった。
遠くには巨大な山脈が見え、空はどこまでも高く、澄み切った青色をしている。
排気ガスの匂いも、埃っぽいオフィスの匂いもしない。ただ、瑞々しい草と土の香りが鼻腔をくすぐった。
「……本当に、来ちまったのか」
自分の身体を見下ろす。
スーツ姿ではなく、いつも休日に着ていた動きやすいワイシャツとスラックス姿になっていた。
軽く体を動かしてみると、連日の残業で軋んでいた関節の痛みや、慢性的な胃痛が嘘のように消え去っている。それどころか、大学時代の——いや、それ以上の力が全身にみなぎっているのを感じた。
足元には、見慣れない植物が生え、見たこともない色の蝶が飛んでいる。
耳を澄ませても、上司の怒鳴り声も、取引先からの着信音も聞こえない。
あるのは、ただ圧倒的な自由。
「はは……」
乾いた笑いが漏れた。
それが次第に、腹の底から湧き上がる大きな笑い声に変わっていく。
「はははっ! あはははははっ!!」
光雄は、大きく両手を広げて、誰もいない空に向かって絶叫した。
「やったああああああああ!! これで俺は、自由だああああああああああ!!!」
過酷な社畜生活は終わった。
理不尽なロジスティクス管理も、意味のない接待も、もうしなくていい。
この見知らぬ世界「アナスタシア」で、元ラガーマンにして元社畜の男・丸川光雄の、ユニークスキル【コンビニ】を駆使した全く新しい人生が、今、幕を開けたのだった。
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