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008

 厳しい冬の寒さも緩和し、外に出るのも億劫ではなくなった。けれど、先生に会えない日が続いて、わたしはまた手を洗う癖が出ていた。

 診療所には、このところ行っていなかった。

 半年ほどのうちに、また同じ生活に舞い戻ってしまったような気がした。

 何とも言えないドロドロとした感情が渦巻いて、動き出せない。人と関わるのが怖い。責められるのが怖い。生きていくのが怖い。

 その時、ポストに何か投函された。胸がドキリと音を立て、目の前が少しだけ暗くなる。

 そして、自分の中で何か振り切れるのが判った。

「もうダメだよ」

 思い出の中にしかなかった絶望の色が心の中をいっぱいにした。

 届けられた手紙がたとえダイレクトメールだったとしても、開ける気にならない。もうそのくらい世界と繋がることに嫌気がさしていた。

 ここにいたくなかったので、何も持たず部屋を出た。

 行くあてもなくフラフラと歩いていたつもりが、結局またここに来てしまった。診療所に通い始めてから、幾分来ることが少なくなったとはいえ、わたしは先生に内緒で、足を運んでいた。いつも通り、メリーゴーランドに足が向かう。

「スペンサー。久しぶり」

 たてがみを優しく撫でる。スペンサーの胸元についているガラスの装飾が、キラリと輝いた。グリーンの深い色が、黒い胴体にとても映えている。

「わたし、どこに行けばいいのかな。もう、これ以上ないってくらいひとりなのに。どうすればいいんだろう」

 春が近付いているとはいえ、日が少し陰ってくると肌寒かった。

 そして気づく。この焦りに似た喪失感。夕闇が近づいていた。

 今来たばかりで帰る気にもならない。でもまだ、今の時期の夕暮れは早い。あまり長いもしていられないことはわかっていた。心細くてたまらなくなった。

「先生に会いたい……」

 スペンサーに聞こえてしまっただろうか?

 わたしはスペンサーの首に抱きつき、ごめんねと呟くと、一気に山を駆け下りた。

 こんなに走ったのはいつぶりだっただろう?

 息を切らせ診療所のドアをノックする。けれど、先生も峻作さんもいないようだった。

 玄関のわきに体を小さくたたんで、丸くなる。鍵ならドワーフの下に隠されているけれど、それを使って入る気にはなれなかった。周りはもう暗くなっていたので、わたしの体は、きっと闇に紛れてしまうだろうと思った。

 負の感情が胸を支配する。目も、耳も、あらゆるその他の器官を、外界から遮断してしまいたかった。しばらくすると物音が聞こえ、体がビクリと反応した。

「先生?」

 おずおずと声をかけてみたけれど、返事はなくいつの間にか灰色の猫が足元に来ていた。

「カイ。あなただったの?」首もとをわたしの足首に擦り付けている。

「先生、まだかな? お腹空いた?」

 抱きあげ、カイの頭を優しく撫でてあげると、満足そうに目を閉じ小さく丸まった。

「生まれ変わったら、あなたみたいになりたいな」

 そんなことを口に出してしまい、弱っている自分を改めて実感する。

 だからなのか、わたしに近づく足音に一切気づかなかった。

「兄さんを待ってるの?」

 驚いて顔をあげると、峻作さんが立っていた。もうそこにはカイの姿はない。

「あっ。うん」

 帰ってきた先生の弟は、鍵を開けてから家の中へ入るように促してくれた。

 彼の横を通る時、少しだけ、思い出の中にある悲しい香りがした気がした。

「ごめんなさい」

「いや。いいけど、鍵の場所は知ってるんでしょ?」

「うん」

「入って待てばいいのに」

「そうなんだけど……何となく待っていたくて。願掛けみたいな気持ちでいたの」

「……」

 俊作さんは何も言わずに部屋を出て行く。

「迷惑かけちゃったかな……」

 大きなソファに浅く腰を掛け、先生を待つ。俊作さんが通してくれたということは、今日先生は戻って来ると言うことなのだろうか? そんなことを考えていると、彼が戻ってきた。

「はい。これ」

 暖められたミルクが差し出された。

「あっ。ありがとう」

「うん」

 そう言うと、わたしが口をつけるのを待っているのか、俊作さんに見つめられた。

「いただきます」小さく言って、ちょっと啜る。

 蜂蜜でも入っているのか、甘く柔らかい味がした。

「それ、飲んだら眠るといいよ。兄貴、多分遅くなるから」

「帰って来る?」

「ああ」

「よかった。ありがとう」

 わたしは言われた通り、ホットミルクを飲みほした。体が、芯の方から温まって来る。そして、それと同時に眠気に襲われた。


 物音に気付き目を覚ますと、わたしの前を先生が歩いていく。

 追い掛けるのに、全然追いつけない。今まだ、自分が夢を見ているとわかった。だから、夢の中だけならいいんじゃないかと、何度も背中に名前を呼び掛けた。

「先生」

「先生」

「先生?」

 まさか、声に出して呼んでいたとは思わなかった……。

「おい」

 ぱちりと目を覚ますと、そこには峻作さんがいた。

「大丈夫? 水飲みに下りて来たら、きみの声が聞こえたから見に来たんだけど」

「ありがとう。大丈夫。夢見てただけだから。あなたは、いつから?」そう言いながら体を起こした。

「少し前」

「そうなんだ。ごめんなさい」

 彼がわたしのことを見つめ、何か言いたげな顔をした。

「どうかした?」

「ねえ。兄貴のことが好きなの?」

 先生に似た、優しい顔の青年が、躊躇いもなく言った。

 暫しの沈黙後、わたしは首を振る。

「好きか嫌いかで訊かれれば、好きだと思う。だけど、それがもっと深い意味の好きなんだとしたら、わたしは答えられない。今まで、人を好きになったことがないから。わからない」

「ふーん」

 彼は、さして興味もなさそうに返事をしてから言った。

「兄貴を好きになるのはやめた方がいい」

 ふふっと、笑って、わたしも応える。

「前にね、先生にも同じようなことを言われたことがある。『ぼくを好きになる人は、みんな不幸になる』って。きっと、あなたが言っているのもそういうことなんでしょう?」

 彼は、少し首を傾げた後、まぁ、わかっているならいいんだけどねと言った。

 確かに、先生に特別な感情を持っていないかと言われれば、持っている気がする。それは、傍から見れば、その人のことを好きだということになるんだろうか?

 訊いてみることにした。

「ねぇ?」

「ん?」

「あなたから見ると、わたしって、そう見えるの?」

「えっ?」

「だから、あなたから見ると、わたしは先生のことが好きそうに見えるのかなって」

「あぁ」と言って、彼はこちらを伺い見てから言った。

「七割」

「えっ?」

「七割くらいの確率で、きみは兄貴を好きになる」

 とても真実味のある台詞に聞こえた。

「でも、まだ好きにはなっていない?」

「そうだね。やめた方がいい」

 その目があまりにも真剣だったので、わたしは目線を逸らせた。

「大丈夫。大丈夫だよ。わたしに好きになんかなられたら、きっと困るから。だからわたしは、人を好きにならないよ」

 笑ったつもりだったはずなのに、なぜか語尾が震えていた。

「泣いているの?」

「えっ?」

 心配そうな彼の顔が近くにあった。

「大丈夫だよ。泣いてなんか無い」

「ごめんね。きみを貶したわけじゃないよ」

「うん。知ってるよ……」

 沈黙に負けたのか、俊作さんが言う。

「兄貴、遅いね」

「今日は帰った方がいいかな……」

「きみがいいなら、泊っていけばいいよ」

「えっ?」

「今日は、多分兄貴戻るから」

「そうなの?」

「うん」

「じゃあ、もう少しだけ待たせて」

「いいよ。きみの好きなだけいればいい」

「ありがとう」

 わたしの返事を聞くと、俊作さんは自分の部屋へと戻って行った。

 部屋のあかりを暗くして、膝を抱えて先生を待った。月あかりのおかげなのか、部屋は真っ暗にはならなかった。

 この先、どうなってしまうのだろうと、不安が胸を締め付ける。ここのところ、泣くに泣けない日が続いていた。


 暖かな大きな手がわたしの手に触れた。驚き、伏せていた顔をあげると、先生が屈みこみ、わたしを見ていた。

 本当は荒れた手を知られたくなかった。でも、嫌ではなかった。

 だって、触れたかった。痩せた先生の体にそぐわず、力強さを隠したそのゴツゴツした腕に触れてほしかった。守られていると感じたかった。

「先生……」

「どうして泣いているの?」

 あんなに泣けなかったはずなのに、いつのまにか涙が零れていた。

「わからない。わからないけど……」

「ぼくのせい?」

「そうじゃないよ。全然、そうじゃない」

「……」

 先生は、心配そうにわたしの顔を覗きこんでいた。

「けど……」

「けど?」

「けど、先生の手が暖かくて、なんだかホッとしたのかもしれない」

「そうなんだ」

 先生は小さく微笑んで、もう片方の手で頭を撫でてくれた。

 夢かもしれないと思ったけれど、温もりを感じて、これは現実なんだと思えた。

「ずっと待っていてくれたんだって?」

 わたしは頷く。

「ごめんね。心配かけたね」

 本当はすごく心配していたけれど、かぶりを振る。

「これからは、ぼくもここにいるからね」

「えっ?」

 先生に抱き寄せられたわたしは身動きが取れなかった。

「もう、どこへも行かないよ」

 涙がこぼれ、服に吸い込まれる音が聞こえた気がした。

「さぁ、もう少し休もう」

 先生の鼓動の音が聞こえる。きっと、わたしの破裂してしまいそうなほど高ぶった鼓動も聞こえていたと思う。でも、先生の鼓動に合わせ呼吸していくうちに、落ち着きを取り戻していた。


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