007
わたしは診療所に定期的に通うようになり、毎日淀みの中を掻き分けるような生活から少し遠ざかっていた。この時期まで来ると、わたしも大分打ち解け気楽に喋ることが出来るようになった。
そして秋の深まったある日突然、先生は言った。
「ぼくのことを好きになったらダメだよ」
「えっ?」
今までの会話の中で、そんな気配は微塵もなかったように思うけれど、どういうことなのだろうか?
「そうなんだ」
わけがわからないまま、わたしは返事をした。
「うん」
「ここで、どうしてって訊ねたら、わたしは先生が好きみたいかな?」
「そんなことはないよ」
そう言って先生は、少し俯き加減で言った。
「ぼくを好きになる人はみんな不幸になるんだ。だから、きみにも言っておいてあげたかった」
「傷つく前に?」
「そうだね。できればきみを傷つけたくない」
「ふふふ」
「何がおかしいの?」
「ううん。やっぱり先生は優しんだなって」
「どうして? ある意味、今のはきみを突き放したように思うんじゃない?」
「そうかな?」
わたしはソファから少し身を乗り出す。
「わたしは今まで人を好きになったことがないから、ある日突然先生に今以上の感情を持ってしまった時の対処法として、釘を刺しておいてもらえば、歯止めもききやすいと思う」
先生が一瞬悲しそうな顔をした気がした。
「……どうしたの?」
「いや」と、先生が苦笑いを見せる。
「今、ぼくの方がちょっときみに突き放されたんじゃないかと思ったんだ」
「どうして? わたしは突き放してなんかないよ。だって、ダメだって言ったのは先生だよ?」
「分かっているよ。ただ、なんとなくさ」
先生は笑ってくれたのに、なんだか少し怖くなって訊ねる。
「でも、このままなら、今のままなら一緒にいられるってことだよね?」
「……うん」
上の空の答えが返ってきた。
「それも、ダメなの?」
少し語尾が震えた。
「違うよ。今のままなら変わらない」
「それなら良かった」
何も気づかなかったように微笑んで見せた。
でも、先生の見せた一瞬の曇った表情の意味は、間違いなく感じていた。先生はきっと、何かを隠している。
ただ、わたしも隠すのがうまくなっていたのだと思う。
先生との前からの約束。
『隠し事はしない』
そして、新しい約束。
『先生を好きにならない』
わたしは、この時もうすでに、ふたつの約束を破っていたのかもしれない。
だから……だから……。
自分の胸の奥にあるものに気付き始めていたわたしは、先生との距離に気を付けながら、診療所に通っていた。そしてある日わたしは先生に訊ねた。
先生に訊ねられることはあっても、わたしから先生に何か訊ねると言うことは少なかったと思う。
「先生って、ちゃんとご飯食べてるの?」
「えっ?」
突然の質問にとても驚いた顔をしてこちらを向いた。
「あっ。ううん。先生ってとても細いから」
クスっと先生が笑うのが判った。
「それは、きみも一緒だと思うけどね」
「えっ?」自分の腕を見た。
そうかもしれない。森にいた時はそれだけで充分になってしまうから何も口にしなかったし、部屋にいても、食べるのが辛く、無理に食事をすると吐いてしまうことが多々ある。それは、診療所に通っていても変わらなかった。食事と言う、生命の源を完全に拒否してしまうような生活だった。
でも、なにか先生にお返しがしたいと思っていたわたしは、料理でもすればどうかと思っていた。そこに、深い意味などない。
祖母がいた頃には作っていたし、数は少ないけれど、今も自炊はしているから、それなりのものを作れる自信はあった。
「久々に、美味しいものが食べたいな」
そんなわたしの気持ちを見透かしたのか、先生が言った。
「本当? もし良かったら、先生にお礼がしたいんだけど」
「そうなの?」
「うん。先生の食べたいもの、言ってみて。わたし、出来る限り作るから」
「うーん」
先生はそう言うと悩みこんでしまった。
そして暫くすると、何かを思いあてたように小さな声で先生は言った。
「……ポトフ」
「えっ?」
「ポトフ。ダメ?」
子どものように、首をかしげる先生の姿が可愛らしい。
「ダメじゃないよ! ダメじゃない! ポトフなら得意だから」
この時期になると、わたしも作る、簡単な野菜料理だった。
「よかった。楽しみにしておくよ」
わたしは頷いてみたけれど、もしかすると少し不安そうな顔をしていたかもしれない。誰かに食べてもらうと言う行為が久しぶりだったから。
気づかれていなければいいんだけど……。
その後買い出しをして、先生の診療所に戻る。
「すぐ作るから待っててね」
そう言ったところで、わたしは派手に鍋のふたを落としてしまい、ガラーンと、大きな音を立てて足元に転がった。
「手伝おうか?」
先生が楽しそうに笑った。
「大丈夫。多分……大丈夫」
「じゃあ、任せるから」
その言葉で、わたしは少し自信が持てた。
ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、キャベツを大きめにカットし、コンソメで煮る。そこに、鳥の胸肉とソーセージも投入する。見た目には繊細とは言えないけれど、美味しそうな香りがしてきた。後は火が通るのを待つだけ。
その隙に、格好をつけて、ガーリックトーストまで準備してみた。
「出来たよ」
先生は読んでいた本から顔を上げ、わたしが並べる料理を眺めた。
「いい香りがしてる!」
「そうでしょ?」
「期待していたからね」
先生はそう言ったけれど、わたしは知っていた。さっきわたしがふたを落とした時の、先生の笑い顔の奥にある不安を。
「ふふふ」
「どうしたの?」
「ちょっと、疑っていたくせに」
わたしはそう言って笑う。
「だって、きみも相当不安そうな顔をしていたからね」
やっぱり先生は、色々とみている。
「そうかも」
「でも、出来た」
「うん」
「じゃあ、早く食べよう! お腹がすいたよ」
その時、玄関の開く音がして峻作さんが帰って来た。
「あっ。来てたんだ」
「こんばんは。お邪魔してます」
「ねえ。これ、今あかりが作ってくれたんだ」そう言って先生はお皿を少し峻作さんの方に差し出す。
「そうなんだ」
「たくさん作ったから、良かったら峻作さんもどうですか?」
「あっ。うん……」そう言ってから、峻作さんは、もらうよと言った。
極上とは言えなかったかもしれない。でも、ふたりとも美味しそうに食べてくれたので、安心した。
新しい年が明けてから、先生が診療所を留守にすることが多くなっていた。
不穏な空気を感じたのは、いつからだっただろう? 見て見ぬふりを続けてきたのは、いつからだっただろう?
毎日通っていた登校を五日にし、今は、週に三日先生に会うことが出来れば多いくらいだった。
ただ、先生はわたしに眠る場所だけは与え続けてくれた。
だから、先生がわたしを遠ざけているという気配は感じなかった。先生は多分、何かを患っているのだと思う。出会った頃から、わたしは気付いていたはずだった。母の姿をずっと見ていたのだから。
先生が隠しているものの意味を……。
でもわたしは、それを先生に訊くことが出来なかった。怖かったから。訊いてしまったら、ずっと隠してきた先生のプライドを傷つけてしまいそうだったから。
そして、この状況がいつまで続いてしまうのか分からず、わたしはまたゆっくりと汚泥の中に身を沈め始めた。




