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006

 言われた通り、わたしは診療所に通うことになった。先生の気持ちに答えることで、胸の奥に感じた罪悪感が消えればいいと思ったからだった。

 先生に言わせれば、今日が初めての登校と言うことらしい。

「こんにちは」

 緊張しながら診療所の扉をノックしてみる。けれど、先生の返事はなかった。

 もう一度と、手を出した時、裏庭の方で声がした。

「こっち、こっちー!」

 声のする方に歩いて行くと、先生と弟さんが猫に餌をあげていた。

「いらっしゃい。あかり」

 茶色の猫を先生が抱え上げる。

「こんにちは」

「……どうも」

 猫の食べ終えたお皿を持ち、弟さんは中へ消えてしまった。

「可愛げがなくてごめんね」

「いえ」

 猫が先生の腕の中から飛び出し、隣の庭の方へ走って行った。

「じゃあ、中へ入って」

「はい」

 大きなソファに腰を下ろす。落ち着かなくて、呼吸が浅くなっていた。

「緊張してる?」

「ちょっとだけ」

 なんとなく、森で会話するのとは違う気がして、先生の顔を見ることができなかった。

「あかりが落ち着いてからでいいから。もし良ければ、眠ってからでもいいんだよ?」

 わたしはかぶりを振る。

「大丈夫です」

「オーライ。ゆっくり行こうね」

「はい」

 先生の方を伺うと、先生もこちらを見ていた。その視線にドキリとし、わたしは慌てて目を逸らした。

「もう少し奥に座ろうか」

 わたしは俯いたまま頷き、ソファに深く腰掛け直す。なんだか、眠くなってしまいそうだった。

 先生は、わたしが落ち着くのを黙って待っていてくれた。

 暫くすると、気分も落ち着いてきたので、先生に頷いてみせる。

「うん。話にくいこともあると思うけど、時間はいくらでもあるからね」

「はい」

「それで、ひとつ約束」

「はい」

「話せないことがあれば、それは仕方がない。だけど、ぼくはいくらでも待つから、隠し事だけは無しにしよう。いいね?」

「はい」

 そして、わたしのセラピーが始まった。

「じゃあまずは、昨日の話をしてくれない?」

 わたしはまた頷く。

「前も言ったと思うんですが、家にいると、全部が怖くなっちゃったんです。電話も来客も郵便も……それで、ずっと逃げ続けているんです」

 先生は頷く。

「だけど、やっぱり見えてしまうことがあって。怖いくせに、見ないと落ち着かなくて。この前、ここで先生と話をした日、帰ると郵便が届いてました。せっかく落ち着いた気持ちでいたのに、台無しになりました」

 自嘲じみた笑みを浮かべる。

「結局、手紙はただのダイレクトメールでした。でも、わたしのメンタルが崩れるのには十分で……。それに最近雨が降っていたので、遊園地にも行くことが出来なくて、眠れない日が続いて、やっと外に出てみたらあんなことになってしまったみたいで。本当にすみません」

 先生は静かに首を振る。

 だからここに来るように言っただろ? と、そんな風に責めることも一切なかった。

「わたし、他人が怖いんです」

 ずっと隠して来た思いを話し始めた。

「祖母が亡くなった後、祖母の親戚だって言う人達が家に来ました」

 あの時のことを思い出す……。


 寒い冬の日で、わたしは膝を抱えて蹲っていた。

「どうしてわたしを、ひとりぼっちにするの……」

 泣き腫らした目がショボショボとし、歯を噛みしめすぎたのか、頭痛がひどい。それに、この先、ひとりでどうやって暮らしていけばいいのか分からなかった。

 その時扉をノックする音に気付き、わたしは暗い顔のまま出て行った。誰でもいいから、人と関わりたかったのだと思う。

「はい」

 ドアの鍵を開けたところで、その人たちがいきなり中へ入ってきた。

「えっ?」

 驚く間もなく、罵声を浴びせられる。

「ちょっと、あの人が死んだってどういうことなのよ!」

 胸倉を掴まれるんじゃないかと、身をかがめる。

「すみません。どちら様ですか?」

「どちら様って、あの人の親族よ!」

「あの人って……」

 怪訝そうな顔で、ふたりは祖母の名前を口にした。

 今まで祖母の親族は母だけだと思ってきたので、とても驚いた。

「その私たちを差し置いて、葬儀も済ませたわけ? どういう神経してるの?」

「……すみません」

 わたしはそれしか言えなかった。

 祖母が亡くなったのは突然のことで、わたしも動転していて、ひっそりと済ませてしまったのは本当に申し訳なかったと思った。

「あの、まだ納骨していませんので、お線香だけでも……」そこまで言ったところであの人たちは顔色を変えた。

「まぁそんなことはいいの」

 そんなことと言う響きに嫌悪感が芽生える。

「貸したものだけ返してもらえれば」

「えっ?」

「あの人に、貸してるの。お金」

 何を言っているのか分からなかった。

「どういうことですか?」

「言ったままだけど?」

 わたしはふたりを見交わす。

 後ろの不健康そうな男性、多分旦那さんであろう人は黙ったままこちらを見ていた。

「わたしは祖母から何も聞いていないんですが」

「はぁ、そういうこと言うの? あんたの短大のお金、誰が出してあげたと思ってるの?」

「短大?」

 思い返す。あの時のお金は、自分でバイトをし、補えない分だけ祖母に借りていたのは事実だった。

 でも、卒業後に借りていた分を返そうとしたけれど、祖母はそれを頑なに受取ろうとしなかった。

 そのくらいさせて欲しい、と言ってくれたからだった。

 だけど、お金を借りていたんだとすれば、祖母は厳しい状況だったのかもしれない。今更だけど、とても申し訳ない気分になった。

「おいくらですか?」

 葬儀の為に使ってしまった分もあるけれど、貯金を崩せば返せるかもしれないと思った。

 でも、あの人たちは冷たい視線で言った。

「おいくらとかじゃなくて、あの人の全財産って話だったんだけど」

「えっ?」

 あまりにも突拍子のない話で、ふたりは詐欺なのではないかと思えた。

「ほ、本当にそんな話があったんですか?」

 わたしは怖くなり、ガクガクと震えながら言う。

「言ったの。まぁ当然でしょ? 借りたものより、多く返すなんてこと」

「何か書類があったりするんですか?」そう言うと、目を吊り上げたまま女性はおかしそうに笑って一枚の紙を取り出す。

「はい。これ」

 そこには、祖母の名前で全財産渡すという文章が書かれていた。

「満足したでしょ?」

 頭の痛みがましていく。だけど、ここで折れるわけにもいかなかった。

「でも、これ、祖母が名前を書いていませんよね?」

 プリントアウトされた祖母の名前の横に、印鑑だけが付かれている。ただ、その印鑑は三文判などではないようだった。

「何よ? あんたが見せろって言ったから見せたのに。それに文句つけられても困るんだけど」

 納得がいかないまま、わたしは言う。

「わたしも突然のことで、正直、祖母にどんな財産があったのか分かりません」

「いいの。そんなことは、私達がそれなりの人を探して頼むから。ねっ?」

 隣の旦那さんは、静かに頷いた。

 そしてここからが、わたしの暗雲立ち込める生活の始まりだった……。


「それで? その人たちはどうなったの?」

 先生は心配そうな目でわたしを見ていた。

「あの後、税理士の方か、司法書士の方がいらして、やっぱり払わないといけないって言われて……」

 先生の表情が険しくなっていた。

「家はアパートだったので、祖母の貯金と、死亡保険金、後、わたしの為に積み立てていてくれたらしい郵便通帳があって、それを全て渡しました……」

 悔し涙なのか、悲しくて泣いているのか分からなかったけれど、頬を涙の粒が伝った。

「返さなければならないお金なら、それは返して当然だと思うし、そこまで執着もしていなかったんですけど、自分一人って言う怖さと、やっぱり生活の足しになるものを取られてしまった恐怖で、全てを放棄してしまいそうになりました」

 多分先生は気付いていると思ったけれど、あの時、死んでしまおうと思ったとは言えなかった。

「そしてその後、相続関係の費用を請求されたんです。数十万ありました」

 先生の方は向けなかった。

「あの頃、地図を作製している事務所でお手伝いをしていたんですが、祖母が亡くなった心労で体調も悪く、一括では無理だったので、ちょっと待ってもらえないかと頼みました」

 今思い出しても、ゾクリとする。

「先延ばしにしようとしたわたしがいけなかったんですけど、それから、何度も何度も電話がかかって来るようになってしまって……。出来るだけ出費も抑えるようにして、祖母と住んでいた部屋が大きかったので、小さいところへ引っ越すことにしました。それで、落ち着いてくれるかと思ったんですが、やっぱり昼夜かまわず押しかけてきました」

「……」

 先生はずっと黙って聞いてくれていた。

「費用の方も、怖かったのである程度のところで全額払いました。でもそれを払い終えたら……次から次に、交通費だとか、電話の代金だとか請求されてしまって払えずにいると……ある日、仕事場にまで押しかけて来たんです」

 居心地のいい、本当に楽しい事務所だった。

「小さな事務所だったので、先輩たちも驚いてしまって」

「そこの人たちは何かアドバイスしてくれなかった?」

「してくれました。わたしが払ったお金も、取り戻せるんじゃないかって言ってくれました。でも、もうあの人たちに関わりたくなくて……」

 あの時のわたしは、疲弊していて、どうやってあの人たちから身を隠すかしか考えてなかった。

「みんな止めてくれたんですが、事務所も、迷惑をかけてしまったので、辞めました。部屋も、また黙って変えて、電話も止めたんです。もうあれから二年くらい経ちます。だけど、まだ怖いんです」

 笑って見せたつもりだったけれど、うまくいかなかった。

「ぼくも法律には詳しくないけど、きっと、取り戻せたんじゃないかな」

 わたしは首を振る。

「お金よりも、どちらかと言うと、祖母を自分が苦しめたんじゃないかっていう気持ちに蹴りをつけたかったんだと思います」

「その人たち、今は?」

「今の部屋には来たことはありません。でも……」

「うん。わかるよ」

 言い淀んだわたしを庇うように、先生が頷いてくれた。

 そしてまた暫くの沈黙ののちに、先生が訊ねた。

「きみは何でそんなに素直に育ってしまったんだろうね。疲れるでしょ?」

 自分が素直かどうかは判らなかった。だけど、疲れるのは確かだった。なんでも真に受けてしまう自分が嫌になることもあった。

「あの事があってから、ネガティブな性格がますます進んでしまって、また電話が来るんじゃないか? とか、家の前で待たれるんじゃないか? とかそんなことばかり考えてしまうんです」

「それを止めたいって言ってたのかな?」

「はい」

 わたしは力なく頷く。

「止めたいです。でも、考えていないと怖いんです。平穏に生きてきたから、神様の罰が当たったんじゃないかって思えてしまって。この先の平穏を望んだら、またいけないことが起こるんじゃないかって……」

 段々支離滅裂になって来ている気がした。

「わたしちょっと喋りすぎちゃいましたよね」

 心配になって先生をちらりと伺う。

 先生は、首を振っていた。

「そんなこと、思ってないよ。どうやったらきみを助けられるかなって、考えてはいるけど」

「……いいんです。先生はもう十分助けてくれてますから。わたしの話を聞いてくれたり、眠れる場所を与えてくれたり」

「それできみが少しでも楽になるなら、ぼくはいつでも歓迎するよ。大丈夫だから」

 先生が微笑む。

「わたし……先生に大丈夫って言われるの、好きです」

 少し、言うのを迷った。言ってもいいのか分からなかったから。でも、先生は気にしていないようだった。

「そう?」

「なんだか安心します。森で初めて会った時もそうでした」

「そうか。じゃあ今度は、森でのこととか話そうか」

「はい」

「そしたら、ちょっとだけ休むといいよ」

「えっ? 大丈夫ですよ?」わたしはそう言ったけれど、先生は首を振った。

「少し疲れた顔してる」

 なんでもお見通しの先生は、そう言ってタオルケットを渡してくれた。私はそれを受け取ると、ぎゅっと抱きしめた。柔軟剤の甘い香りが胸をホッとさせてくれた。


 どのくらい眠っただろうか?

 先生のところは本当に居心地がよくて、眠れずに苦しんでいたのが嘘のようだった。眠れないことが、あんなにも体力を奪っていたとは思っていなかった。

 ゆっくりと目を開ける。一番先に先生の姿を探してしまう自分の行動の意味が分からなかった。

(まだ、もう少し……)

 もう一度目を瞑ってしまおうと思った時、診療室のドアが静かに開けられ、内心ドキリとしたけれど、眠っているふりをし続ける。音の主は先生のようだった。カタカタとノートパソコンをタイプしている音を聞いているととても心地がよく、眠りに落ちてしまいそうになる。

 でもその時、先生が何か落とした音がし、わたしは目を開けた。

 それに気づいたのか、先生が言う。

「ごめん。起しちゃったかな?」

 苦笑いを浮かべている。

 わたしは首を振り、ゆっくりと体を起こす。

「もう少し眠っていてもいいんだよ」

「ありがとうございます。かなりゆっくり出来ました」

「そう? それならいいんだけど」

 そう言いながら、先生はボールペンを拾い上げる。

 借りていたタオルケットを畳んでいると、少し冷たい風が吹き、外では夕立なのか、雨の粒がポツリポツリと屋根を叩き始めた。

「あれ? 雨が降ってきちゃったみたいだね」

 先生が窓の外に目を向けた。

「そうみたいですね」

 わたしも薄く青色の見える空を見上げながら頷く。

「残念ながら、もう少しここにいなきゃいけないみたいだね」

「……えっ?」

 いたずらっぽく笑う先生の顔が可愛らしく見え、わたしも、久しぶりに笑顔になれた気がした。

「今日はもう話は止めて、もうちょっと眠るといい。ねっ?」

 わたしはその言葉を素直に受けることにした。

「はい。ありがとうございます」

 そしてもう一度タオルケットを広げ、ソファに横になった。目を瞑ると先生のキーボードをタイプする音と、雨音の混ざった音だけが聞こえ、わたしを包んでいるようだった。


 翌日、森のことを話す事になった。

「わたしの母は、あの遊園地で働いてました」

 先生は何も言わずに頷き、静かにそして真剣にわたしの話を聞いていた……。


 母が仕事の日はいつもあの遊園地に寄ることになっていた。と言っても、母が呼んだのではなく、自分であの場所を選んでいた。

 寂しかったのだと思う。誰もいない家へ帰ることも、病弱な母を一人で働かせていることも。

「ママ」

「お帰り」

 売店の売り子をしている母のもとに駆け寄る。

「お腹、すいてる?」

 いつも母はわたしが帰るとこう訊いた。

「学校どうだった?」とか、「勉強進んでいる?」とか、記憶にある母の思い出の中に、その台詞は一度もない。

 返事の代わりに、お腹が鳴った。

 クスクスと笑って、母は売店にあるおにぎりを渡してくれた。それは、日によってホットドッグであったり、アメリカンドッグであったりした。

「好きでしょ?」

「うん」と言って受け取る。

「大好き」

 丸いおにぎりにかぶりつくと、中には鮭が入っていた。

「おいしい」もう一口かじりつく。

「すごくおいしい」

 母の笑顔がとても嬉しかった。

 それを食べ終わると、売店の裏にある休憩室で宿題をしながら母の仕事が終わるのを待つのだった。

 園内から人の気配がなくなっていくのはどこか寂しく、子ども心に不安になった。

「ママ」

 夕闇が迫る時刻、わたしはいつも決まって母に抱きついた。楽しそうな声がドンドンと園内を遠ざかってゆき、この世界がわたし達だけのものになってしまうような、そして、この先母もわたしをおいてどこかへ行ってしまうのではないかと、それが怖くてたまらなかった。

「大丈夫」そう言って母は背中をさすってくれた。

「大丈夫よ」

 母の弱々しい腕の中でも、その言葉は、いつもわたしを勇気づけてくれた。


「だから」と、わたしは先生の方に向き直る。

「だから、先生と初めて会ったとき、先生に大丈夫だよって声をかけられて、懐かしいような、どこか安心した気分になったんだと思います」

「昨日の話だね」

「はい。そうです」

「お母さんのことが、本当に好きだったんだね」

「でも……覚えていることって、とっても少ないんです」

 別れた時が幼すぎた。

「そうなの?」

「はい……」

 でも、きっとそれだけじゃない。受け止めきれなくて、忘れることで、バランスをとってしまったから……。

「……それじゃあ、お父さんのことはなにか覚えている?」

 先生の言葉に、返事が出来ない。

 父のことはあまり話したくなかった。けれど、先生との約束だった。

『隠し事はしない』

「ごめんなさい。まだ……父のことは話せません」

「そうか。じゃあ、この次はきみの趣味なんかを聞こうかな」

 わたしはきょとんと、先生を見た。

「趣味ですか? 母の話の続きじゃなくて?」

「うん。お母さんのことも、もう少し時間を置いてからにしよう」

 先生には、わたしの心などお見通しなんだと思う。深い傷を、抉らないようにしてくれている。

「たまにはさ、全然別の話をしてもいいんじゃない? それで、ぼくをもっと身近に感じてくれれば」

 小さく何度か頷く。

「それならたくさん話せると思います」

 先生はとても楽しそうに笑った。

「楽しみだな」

 わたしたちは、そうやって、ちょっとずつ絆を築いて行った――

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