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005

 先日封書が届いているのを見てしまったせいで、わたしはまた暗い顔をしていた。俯き、溜息をつき、そして、何もしていないのに手を洗う。何度繰り返したかわからない。

 どうしても、あの頃のことが思い出されてしまって、息苦しかった。けれど、あの月夜の翌日から、雨降りの日が続いていて、遊園地へ行くことが出来なかった。

 普段雨の日ならば、隠れていられるような気持ちになり、胸の重さも少し緩和されるのだけれど、どうしても頭からあの光景が離れない。

 診療所なら休めるかもしれない。そんな風に思ったけれど、躊躇いがあった。

 先生のあの言葉に、こんなにもすぐ頼ってしまうと、見放されてしまうのではないかと、それもまた怖かった。本当に困った時の場所にしておきたかった。

 ベッドの端にもたれかかったまま、窓の外を眺める。さっきよりも雨の量が減っているように思えた。

「行ってみようかな」

 重い体を起こし、髪を整え、靴を履く。

 玄関の扉に小さな鏡を下げてあり、普段出掛ける場合はそれで最終チェックをするのだけれど、今の自分がどれだけひどい顔をしているのか想像がついたので、見ないまま裏返す。

 ずっと笑っていない。一人で部屋にこもっているのだから仕方ないと思いつつも、そんな自分が哀れになった。

 いつまでこんなことを続けなければいけないのか。

 もう、失うものなんてなにもないはずなのに、こんな場所捨ててしまえばいいはずなのに、どうしても動き出せない。

 また、大きくため息をついた。

 黄色と黒のギンガムチェックの傘を手に、森を目指す。

 当然ながら、蝉の声はしなかった。

 雨のシトシトとした音だけが森に響き、木の隙間から時折大きな雨だれがあり、そのたびにボタリ、ボタリと傘を鳴らした。

 雨の日のこの森も、悪いものではなかった。やはり、気持ちが落ち着く。

ゆっくり坂道を上り、いつものわき道を降りる。園内も、沈黙に充ちていた。

 雨と言うよりは、霧に近い粒が立ち込めていて、見通しが悪い。少し怖いような気もしたけれど、部屋にいるよりは随分と楽に呼吸出来た。

 園内の乗り物も、霧で見通しが悪いせいか、寂れた風貌も緩和されているように見え、人さえ来てくれれば、今にも動いてくれそうに思える。

 スペンサーの横のいつもの席は、霧でしっとりと湿っていた。スペンサーも少し肌寒そうだった。

「寒い?」

 優しくタオルでたてがみを拭いてあげた。

「特別だよ」

 そう言って、自分の席もタオルで拭った。

 周りを見渡すと、とても幻想的な世界だった。霧の中の緑が、川の中の水草のように生き生きとしていた。

 それに反してわたしは、座席に横向けに座り、膝を抱える。肌寒かったのと、自分を守りたかったのだと思う。また壊れてしまわないように……。

 暫くガタガタと体を震わせていたけれど、雲間から光が差してくるのが分かった。薄暗い森が少し明るくなってくる。

 止んでしまうと、やはり雨は雨でわたしを隠してくれていたから好きだったのだと、気づく。

 今日は、ここへ来ても胸が落ち着かない。

 帰るべきだろうか……? それとも……?

 考えていると、吐き気が込み上げてくる。そして、昔の記憶がフラッシュバックした――


「出てきな! 出てきなって言ってるんだよ!」

 先ほどから、あの人たちの声が響いている。

「わかってるんだからね。中にいることぐらい」

 扉を叩く音も大きくなっている。きっと、旦那さんなのだろう。

 わたしは耳を塞ぎ、こちらの気配などわかるはずがないと思いながらも、か細く呼吸することしかできなかった。

 暫くすると、扉の向こうの声が止んだ。帰ったはずはない。耳だけにすべての神経を集中させる。どうやら、誰かと話をしているようだった。

「なんなの?」

「あっ。隣のものですけど」

「何?」

「すみません。隣の人、朝早くに出掛けて行ったようでしたよ」

「は?」

「だから、そんなに呼んでも出て来ないんじゃないかと思って」

 微かではあるけれど、話し声が聞こえた。

 たしか、隣に住んでいる人は、大学生のような気がする。

「あんまり騒がれると、こっちも警察呼ばなきゃいけなくなるので。帰った方がいいんじゃないですか?」

「親戚に会いに来てるだけだよ。あんたに言われることじゃない」

 暫く怒鳴り声が響いていたけれど、警察という言葉に怯んだのか、あの人たちの靴音が遠ざかって行くのがわかった。

 怖くて、怖くて、怖くて仕方がなかった。体の震えが止まらず、この物音で、またあの人たちが戻って来てしまうのではないかと気が気ではなかった。

「うぅっ」

 苦しい。涙が零れた。息がうまく出来ない……。

 たすけて――

 意識が途切れそうになる瞬間、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。

「あかり!」

 薄っすらと見えた視界の先に、先生の姿があった気がした。


 優しい温もりが髪を撫でる感覚に驚き目を覚ますと、先生が心配そうにわたしを見ていた。

「気が付いた?」

「あっ。はい……」

 首を少し動かしてみると、いつものレストランの席に寝かされていたみたいだった。

「ごめんね。こんなところで」

「いえ……。ありがとうございました」

 まだ自分がどうしてここにいるのか分からなかった。

「過呼吸になりかけていたんだよ」

「えっ?」

「だけど、きみのは少し違うみたいだった」

 先生は苦い顔をする。

「やっぱり、もっと話を聞かせてほしい。そうじゃないと、きみはきっと……」

 そう言うと、先生は首を振る。

「でも今はいい。今は、もう少し休もう。ぼくがここで見ていてあげるから。心配いらないよ」

 先生の問いかけに答えたかった。でも、なんだかとても瞼が重い。逆らいたいのに逆らうことが出来なかった。

「先生……ごめんなさい」

 わたしはそれだけを伝えると、また眠りの淵に落ちて行く。

 先生が、髪を撫でた感覚が薄っすらとわかった。


 どのくらい眠っていたのだろうか?

 レストランの中が薄暗くなっていた。

 そう言えば先生が傍にいてくれたような気がして呼びかけてみる。

「先生?」

 けれど、返事はなかった。

 体を起してみる。この頃ずっとあった体のだるさが少しなくなっている気がする。やはり、眠っていなかったのがいけなかったんだろう。

 掛けられていたわたしのタオルケットが床に落ちた。

「やっぱり、先生はいたんだよね?」

 タオルケットを掴み、レストランを出ようとしたところで気付く。違うソファに、先生が横になっていた。

「先生」

 大きな声を出したつもりはなかったけれど、レストランの中で反響した。

 駆け寄ると、先生は気付かずにまだ、眠っているようだった。

 時計を持っていないので、今何時か分からなかったけれど、夕暮れが近いのは分かる。わたしがこんな時間まで眠っていたので、待ち疲れてしまったのかもしれない。

 もう一度呼びかけてみる。

「先生?」

 返事はない。

「先生?」さっきよりも、大きめの声で呼びかけるけれど反応はない。

 わたしは怖くなり、躊躇われたけれど、そっと先生の体を揺すってみた。

「先生?」

「ん?」

 やっと気づいてくれたようでホッとした。

「遅くなってすみません。帰りましょう。きっと、弟さんも待ってます」

「ん? ぼくのことなんて誰も待ってないよ」

 寝ぼけているようだった。

 少し待っていると、先生の意識が戻って来た。

「あれ……ぼく……」

 先生はとても驚いた顔であたりを見回していた。

「ごめん……。ぼくも眠ってしまったみたいだね……」

 冷静を装っているけれど、先生の動揺が伝わって来る。

「いえ。すみませんでした。わたしがこんな時間まで眠っていたから……」

「いや。ぼくが眠れって言ったんだから。そんなの気にすることないんだよ。それで? ちょっとは落ち着けたかな?」

「はい。おかげさまで……」

「そうか。じゃあ、帰ろうか」

「はい」


 レストランの外は、金色の綺麗な夕焼け空があった。

「こんな色の夕焼け初めて見ました」

「ぼくもだよ……」

 あまりにも素敵な光景に声も出せないまま、わたしたちは立ちつくしていた。

 夕焼けが終わると、黙って歩きだす。

「足元気をつけてね」

「はい」

 わたしはさっきの光景の余韻にまだ浸っていた。

 あんなに何も考えずにいた時間は、このところあっただろうか?

 考えてみたけれど、ずっとなかったような気がする。

「あかり……」

 先生の声で、我に戻る。

「はい」

「やっぱり、今度からぼくのところにおいで」

 立ち止まり、行く手を塞ぐように先生が立ちはだかる。

「ここを気に入っているのは分かる。だけど、今日みたいなことがまた起こってしまったら、きみはどうなる?」

 わたしは返事が出来なかった。

「毎日じゃなくてもいいんだ。ぼくのところへ来て、話をしよう。病院に通うんじゃなくて、学校だと思えばいいよ」

「……学校?」

「うん。ぼくが先生で、きみの進路を導くんだ。ねっ?」

「……本当の、本当にいいんですか?」

「いいよ」

「でも、先生の迷惑になってしまうんじゃ……?」

「いつぼくが迷惑だなんて言った?」

「……言ってません」

「うん。きみのことが心配だから言ってることなんだ。だから、大丈夫だよ」

 そう言って先生は、わたしの肩に触れようとしたのだと思う。元気づけてくれようとしているのは分かった。それなのにわたしは、つい避けてしまった。

 昔のことが蘇る。

「……すみません」

「ごめん。ぼくの方こそ驚かせてしまったね」

 わたしは強く首を振ることしかできなかった。

「さぁ帰ろう」

「……はい」

 気にしていないように、優しく先生が微笑んでくれたので、わたしはホッとしたけれど、その反面、胸の奥に小さな罪悪感が込み上げていた。


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